アンドレイ・チカチーロ【連続殺人犯】

アンドレイ・チカチーロ【連続殺人犯】

アンドレイ・ロマノヴィチ・チカチーロウクライナ語:Андрі́й Рома́нович Чикати́лоラテン文字表記の例:Andrey Romanovich Chikatiloチカティロチカティーロとも書かれる。1936年10月16日 – 1994年2月14日)は、ウクライナ生まれの連続殺人者ロストフの殺し屋赤い切り裂き魔などの呼び名で知られる。1978年から1990年にかけて、おもにロシア・ソビエト連邦社会主義共和国内で52人を殺害したとして殺人罪を言い渡された。一部の犠牲者は、当時のウクライナ・ソビエト社会主義共和国ウズベク・ソビエト社会主義共和国で殺されている。

当時のソビエト連邦でも連続殺人犯はチカチーロ以前から存在していたものの、公式の見解としては「連続殺人は資本主義の弊害によるものであり、この種の犯罪は存在しない」とされていた。チカチーロの犯罪については、民警ロシア語版)(ソ連内務省管轄の文民警察組織)内部では連続殺人という認識がなく、組織立った捜査が行われなかった。チカチーロの犯行範囲は事実上ソ連全土に及んだこと、犠牲者が男女を問わなかったことで、同一犯の犯行とは考えられず、いたずらに犠牲者を増やす結果となった。最終的にはKGBの捜査介入が行なわれ、逮捕されるに至った。

生い立ち編集

1936年10月16日、ウクライナ共和国スムスカヤ州ヤブロチュノア村に生まれる。タチアーナという妹が1人いるほか、飢えた隣人に誘拐されて食べられてしまったステパンという兄がいたと母親が語っているが、実際に起こったことなのかどうかは定かではない[1]

ソ連が第二次世界大戦に参戦すると、アンドレイの父は徴兵された。アンドレイは母親と寝床をともにしていたが、慢性的な夜尿症であったために症状が出るたびに母から暴行を受け、屈辱的な日々を送った。

戦争は、アンドレイに心的外傷をもたらした。ウクライナを覆っていた飢饉のあいだに、ヨシフ・スターリンがウクライナの農民からウクライナ全土の収穫物を強制的に収奪した。ウクライナのいたるところで次々と餓死者が出たうえ、カニバリズムが急激に増えたことも報告された(ホロドモール)。

第二次世界大戦中に遭遇した電撃戦にて、アンドレイは怯えと興奮の両方をもたらした体験に出会っている。

戦争でナチス・ドイツの捕虜となり収容所で生き残った父が家に帰還したが、父は兵役による報酬と生存の代わりにドイツ国防軍に降参した「裏切り者」「生き恥を晒した」という烙印を押された[2]

勃起不全編集

成長のさなかに自身がインポテンツであることに気付いたアンドレイは苦悩する。自身のぎこちなさと深刻な憤怒とが、アンドレイ自身をさらに悪化させた[2]。生まれついての性的不能であった彼は、髭が生えてくるころには、自分は神の意志によって「去勢」されたと信じるようになった。いつしか彼は、自分の性器を無意識のうちにいじるようになった。この性的不能がチカチーロという人間を生涯苛み、さらには連続殺人という行為に至らせる要因となる。

学校では、極度の近眼となで肩からくるなよなよした雰囲気から同級生によるいじめのターゲットになった。近視と性的不能のほかに乳首が異常に大きく長かったことで、小学生の頃は「おかま」というあだ名をつけられたが、成長するにつれて体が大きくなると一転して「チカチーロ・シラ(強靭な)」と呼ばれるようになった。

読書を愛し、特にソ連の若きパルチザン(ゲリラ)がドイツ兵を捕らえ森の中で虐待する小説に傾倒していた。15歳を過ぎるとドストエフスキーを始めとしたロシア文学に親しむようになり、のちに学校の壁新聞を使って生徒たちに演説を行い、カール・マルクスフリードリヒ・エンゲルスウラジーミル・レーニンらの思想を聞かせている。1953年には、『プラウダ』に掲載された記事を近隣の人々に読んで聞かせるという役目を政治局の地方係官から任せられている。

自分が一度失敗したことを忘れることができず、自分や両親に向けられたどんな些細な愚弄も忘れなかった。思春期のころのアンドレイは異性と付き合うことを断念し、読書と自慰に耽った。

1954年、アンドレイの家に、妹タチアーナの同級生でターニャという名前の少女が訪ねてきた。彼女は13歳であった。年齢に比して大人びていたターニャを見たアンドレイは彼女の背後から襲い掛かり、強引に性交を試みた。だが、彼の性器は勃起しなかった。射精こそすれど、まるで変化がないのである。これを受けてターニャはアンドレイを罵り、彼は激しい後悔と劣等感に打ち震えた[3]

大学受験での挫折編集

性的コンプレックスを紛らわせるかのように勉学に打ち込んだ結果、地元では知らぬ者のない秀才となっていたチカチーロは、ソ連におけるパワーエリートを志し、名門モスクワ大学法学部の受験に挑むも、失敗に終わった。本人は「成績は良く、試験の手ごたえも十分だったのに、父がドイツ軍の捕虜になったばかりに不合格になった」と信じて疑わなかった。自分の才能を過大評価したチカチーロは、大きなルサンチマンを抱いたまま年を重ねていった。

モスクワ大学不合格の挫折を乗り越えられなかったチカチーロは、翌年の再受験や別の大学への進学を断念し、不本意ながら工業専門学校に進んだ。そこでは通信工学を専攻し、卒業後は通信技師として働くかたわら、35歳で通信制大学で大学卒業資格と教員資格を取得し、ノボシャフチンスクNovoshakhtinsk)で教師になることを目指す。彼の出世は、のちの複数の児童性的虐待未遂に対する告訴でもって終わることになる[4]

19歳のとき、チカチーロはタチアーナ・ナリツナドという17歳の少女と恋に落ちた。2人は会うたびに互いを求め合い、性的行為におよぶのも早かった。だが、性交に2度踏み込んだにもかかわらず、チカチーロはやはり性的不能であった。このために2人の間では、性交はタブーと化した。このままだと彼女は自分に見切りをつけるのではないかという焦燥感に駆られたチカチーロは、今度こそはという思いで性交に再び臨んだ。精力剤を飲んだり、木の葉を磨り潰したものを自分の性器に塗り付けるなど、必死であった。だが、そんなチカチーロに対してタチアーナは辟易し、さらには気味悪がるようになった。結局、チカチーロの性器は勃起しないまま射精するに至った。

電話工編集

チカチーロは2年間の兵役(通信工学を専攻した経歴を買われ、駐東独ソ連軍に通信兵として勤務)を経て、「青年共産主義同盟」の要請で、モスクワから1300kmほど離れたニジニ・タギルという街にある基地に配属された。彼はこの地の寒さで、皮膚が裂けて肉が剥き出しになるほどのあかぎれに悩まされた。だが、この時期のチカチーロは、同僚や上司の評判がよく、ほぼ順調に任務を果たして帰った。

1960年に陸軍を除隊したチカチーロは、家族が住むヤブロチュノア村に一旦戻り、ロシアとの国境付近に仕事を求めて移動した。ロストフ・ナ・ドヌーから30kmほど離れたロディオノホ・ネスタビィエフスキという街で、電話工として働き始める。自分の性的不能に気がついたのは、このころであった。働き出して生活が安定したチカチーロは家族を呼び寄せ、1962年に両親が小さな家を購入して出て行くまで、彼らは一緒に過ごした。

同年、妹のタチアーナが、ワシーリーという土地の青年と結婚している。このころのチカチーロは、暇を見つけては1日に何度も自慰行為をするようになった。まるで硬くならない自身の性器を、しごくようにして自慰に耽っていた。この電話工時代、チカチーロは、仕事仲間と電信設備の修理に来ていたとき、仲間に隠れて自慰行為を行っていたところを運悪く同僚に見られたことで大きく馬鹿にされるという致命的な失敗を犯した。チカチーロは妄想をするようにもなった。それは、か弱い女が嫌がるも、最後はチカチーロの腕の中で抵抗を弱め、彼の自由にされるというものであった。

結婚編集

妹のタチアーナは、兄のことを心配していた。ソ連では、18歳から19歳の間に結婚しているのがほとんどであったが、チカチーロは27歳になろうとしていた。チカチーロはしばしば「勉強中だ」と部屋に籠もって自慰に耽っていた。兄が部屋の中で何をしているのかは妹も気がついていた。タチアーナは、ウクライナ国境沿いのノヴォシャフチンスクにある自分が働いている美容院で知り合った友人、フェーニャ・オドナチェヴァを兄に紹介した。フェーニャはチカチーロよりも3歳年下であった。最終的にはチカチーロとフェーニャは結婚するに至った。フェーニャは、チカチーロが下戸である所に惹かれた。ロシアでは、夫の酒癖が悪かったり、アルコール中毒である場合が多いという背景があり、フェーニャの母も、夫の酒癖の悪さに悩まされていた。2人が結婚したのは1963年のことである。チカチーロはフェーニャに対し、「結婚するまで、君の体を大事にしておきたい」と語った。性交そのものは正常であったものの、チカチーロにとって、性交はすでに重荷と化しており、1965年には娘リュドミラ、1969年には息子ユーリーを儲けたものの、それでもコンプレックスは拭えなかった[5]。 また、このころにはソ連共産党への入党を果たし、地元党支部で青少年教育やスポーツ関係の委員長を務め、パートタイムで地元紙の記者としてコラムを執筆するなど、ある程度の社会的地位を得る。

妻との性行為では、自分の指を使って彼女の中に射精することに努め、官能的な性交はごくわずかだったと主張している。

教職編集

チカチーロは結婚の翌年から、電気技師として働くかたわら、大学進学の夢を捨てられず、また社会的地位の向上を目指して再び勉強を始める。30歳でロストフ大学教養学部の通信教育課程へ入学し、ロシア文学を専攻する。5年後に念願の大学卒業を果たした。教職資格を取得したチカチーロは卒業と同時に新しい職場を探し、ノヴォシャフチンスクにて小学校の教師の職を得たのである。しかしこのころ、若い女性とのふれあいが、一生の仕事にならないだろうかという考えも抱いていた。

チカチーロは1971年から1981年まで、小学校や職業訓練学校の教師を務めていた。強度の近視であったにもかかわらず眼鏡をかけることを嫌ったチカチーロは、結局30歳の時に自動車免許を取得するまで眼鏡を購入しなかった。教師として最初に赴任した小学校の教室で授業を行おうとするも、まるで身動きが取れなかった。教壇に立っても、極度のあがり性によって子供たちをまったく指導できず、担当していた上級生のクラスを学級崩壊に陥らせていたため、教師としては不適格であった。共産党員であったチカチーロは校長の厚意もあって副校長待遇として迎え入れられたが、能力不足を露呈したためほどなく解任されている。

また、チカチーロはこの小学校やのちの職場となる職業訓練学校にて、数度のわいせつ事件を起こしている。上級生のクラスの担任を外されてから、チカチーロは低学年のクラスのみを指導するようになるも、その後「チカチーロ先生は体を触る」という噂が立つようになり、実際に自分の女生徒の体に触れてわいせつな行為に及んでいた。通勤途中のバスや電車の中で、少女にわいせつな行為をしていたことを同僚に目撃されて校長に報告がなされていた。のちに校長から追及され、最終的には辞職させられている。その後、GPTU第39職業訓練学校に転任するも、職員の削減という理由で1978年9月に退職、シャフトゥイShakhty)の第33職業訓練学校の教師兼舎監として赴任することになった。ここでは、授業中に自分の性器をいじる癖を生徒たちから嘲笑され、「ガチョウ」というあだ名をつけられ、夜尿症、異臭がするという理由で生徒たちに馬鹿にされた。

ここでの仕事以来、チカチーロは少女だけでなく、少年男児にも目を向けるようになる。ある夜、チカチーロは寮で眠っていた15歳の少年のもとに忍び込み、少年の下着を下ろしてフェラチオをしながら自分の性器もいじくり回し、少年に抵抗されると遁走した。このことを翌日に全校に知られたことで生徒たちからさらに愚弄され、同僚も陰でチカチーロを笑った。その後チカチーロは散歩中に生徒から襲われて怪我も負ったことがきっかけで、ジャックナイフを携帯するようになった。このナイフが、のちに引き起こす連続殺人で使用されることになる。

最初の殺人編集

1978年、チカチーロはロストフ・ナ・ドヌー近くの町で炭鉱業専門学校に転勤となる。同年12月22日、チカチーロは9歳の少女レーナ・ザコトノワを連れ出して強姦しようとしたが、勃起はしなかった。抵抗されたためにチカチーロは少女の首を掴んで自分の全体重をかけ、レーナの体が動かなくなってからチカチーロは行為に及ぶが、彼女が言葉を発して息を吹き返したことに驚愕し、彼女の性器をめった刺しにして殺害、刺している途中で射精する。このとき、レーナがしていたスカーフをかぶせて彼女の両目を隠している。死体は袋に詰めて凍った川に遺棄した。記録されているものでは、これがチカチーロの初めての殺人と見られている。チカチーロは、息絶えた犠牲者の体を突き刺したり切り裂くことによって、性的興奮とオーガズムを得ることができた。

この事件では、アレクサンドル・クラフチェンコという無実の男性(強姦殺人の前科持ち)が疑われた。彼にはアリバイがあり、妻とその友人も知っていたにもかかわらず、民警が圧力をかけると彼らは態度を変えてしまい、これによって逮捕されたクラフチェンコは民警の激しい尋問の末にレーナを殺したと自供し、1983年に銃殺刑に処せられた。

チカチーロはレーナを殺してから3年近くの間は殺人も強姦もしなかったが、1982年にふたたび犯行を始めた。その間、彼は勤務先の学校を解雇されたのをきっかけに教職に見切りをつけ、国営工場の中級幹部職員に転職している。

チカチーロは1983年の6月まで殺人を犯さなかったが、同年9月前までに3人の女子供を含む4人を殺害した。成人女性は、酒か金を与える約束をすることで誘いに乗った売春婦ホームレスで、チカチーロは彼女らとの性交を試みたが、やはり勃起せず、例によって彼女らはチカチーロの勃起不全を嘲笑し、彼に殺意と怒りを覚えさせた。また、チカチーロは主にバス停や鉄道駅にいる家出した子供や若い浮浪者に声をかけて、彼らを(ほとんどは)森の近くに誘い込んで殺した。子供の犠牲者については男も女も関係なく、チカチーロは彼らに玩具や菓子を与えると約束することで誘惑できた。

1983年までに、6体の死体が発掘された。ロストフ民警本部長ミハイル・フェチソフ少将(ソ連では警察組織にも軍隊の階級制度が導入されていた)は、捜査の指揮を執るため殺人事件が多発している地域へ向かい、シャフトゥイ周辺での捜査に集中した。実働部隊である捜査チームの指揮官には、犯罪科学英語版)の専門家であるヴィクトル・ブラコフ中佐を任命した。民警は、精神疾患を患い、性犯罪者として知られている者たちを集めて、あちらこちらでのろのろと仕事をしていることが分かった者は捜査線上から外した。殺人を自白した若い男は多数いたが、彼らのたいていは精神的に障害を負った若者であり、過酷な尋問が延長されたことで、やってもいない犯行を認めていた。そのうちの1人で、容疑をかけられた未成年の同性愛者は、拘留中の独房内で自殺した。

1984年、別の場所で15の殺人が起こった。警察は巡回を増やし、多くの公的な交通手段を閉鎖して、平素な服を着た男性について情報を公示した。

殺人再開、最初の逮捕編集

1982年、教職を解雇されたチカチーロは、ロストフネルード国営工場に「トルカチ」という上級技師として再就職する。資材調達部門の中級幹部職で、工場で生産される製品に必要な資材を買いつけるのが仕事である。高待遇であるものの、年中広大なソ連領内を、不完全な交通網を使って旅行せねばならないこの職業の離職率は高く、能力や資格に問題のある人物でもある程度は目をつぶって採用せねばならなかった。事実、チカチーロも逮捕されるまでに数度転職しているが、いずれもトルカチのポストだった。仕事柄、長期出張が多く、また自分の裁量で単独で仕事をすることが許されていた。これを機にチカチーロの犯行はエスカレートし、男女を問わず襲うようになる。被害者には激しい暴行を加え、両目を抉り、遺体を切断し、その一部を食べたり持ち去るようになる。女性と無理矢理関係を結ぼうとするが、激しい抵抗に遭って失敗。しかし、相手の抵抗に興奮して射精するという経験をする。これがきっかけで、性交よりも相手が抵抗することに性的興奮を感じるようになる。チカチーロが被害者の両目を抉ったのは、「殺された者は、自分を殺した者をその瞳に焼き付ける」という、ロシアの古い諺が気になっていたという理由もあった。

1984年には、妻フェーニャとの性交を絶つ。同年8月下旬、ロストフのバス停で少年や少女に話しかけているチカチーロの様子が、捜査チームを率いてバス停を監視していた私服刑事アレクサンドル・ザナソフスキー少佐の目に止まった。不審な振る舞いをしていると判断されたチカチーロは、2週間の監視ののち、9月13日深夜にザナソフスキー少佐から民警分署への同行を求められた。このときチカチーロの鞄から料理包丁やロープが出てきたため、チカチーロは緊急逮捕された。しかし、ソ連の法律では24時間以上拘束できなかったため、勤務先でリノリウムが数メートル分紛失した事件の容疑者として再逮捕された。法権力を持つ取調官の手に委ねられ、チカチーロの拘束時間は延長された。取調べによってチカチーロの不明な素性が暴かれたが、彼の殺人を証明するには証拠が不十分とされた。ほかにもバッテリーの窃盗事件に関与していることが判明したチカチーロは、1984年12月、裁判で懲役1年の実刑判決を受けるが、数ヶ月間の未決勾留期間を1日当たり数日の懲役に充当するとされたため、裁判終了後数日で釈放された。

なお、これらの窃盗事件は実は無実であったが、チカチーロは2月22日公共物横領罪で告発される。4月に告発を取り下げる代わりに依願退職するよう勧告を受け、正式に解雇された。これがきっかけで、12月12日には共産党から除名されることになった。当時はDNA鑑定がなく、チカチーロは血液型と体液が一致しない「非分泌型」であったために決め手に欠け、殺人での立件は行われなかった。なお、実際は非分泌型などではなく、当時で使われていた検査用試薬では検出できないタイプだっただけとも言われている。

公判の際に撮影された、頭髪を剃り顎をやや上に向け、悪魔的な笑みを浮かべた極めて特徴的なチカチーロの写真がよく知られているが、最初に逮捕された頃のチカチーロは薄くなりかけた灰色の髪を七三分けにし、黒ぶちメガネを掛け、渋いスーツを着こなした真面目な役人を思わせる容姿で、言葉遣いも丁寧で立ち居振る舞いも実直で温厚な紳士そのものだったため、およそ快楽殺人を犯す人間には見られなかった。

晩年の殺人と犯罪捜査編集

ノヴォチェルカッスクで新しい仕事を手に入れたチカチーロは、目立たないように活動した。別々の日に2人の女性を殺害してから、1985年の8月に出張先のモスクワで中年の売春婦を殺害するまで、誰も殺さないでいた。が、仕事の出張でウクライナのRevdaへ向かい、同地で若い少年を殺害した1987年の5月まで殺人を犯していたことは知られてはいなかった。6月にはザポリージャで、9月にはレニングラードで殺人を犯している。とくに1985年のモスクワでの凶行は、ソ連治安当局首脳部に強い衝撃を与え、ついにKGB第2総局(国内保安部門)による捜査介入を決断させるに至った。KGBからは辣腕の犯罪取調官イーサ・コストイェフKGB大佐がロストフへ派遣され、1985年の中頃、体制を一新して捜査が再開された。

殺人事件が起こったことが知られていたロストフ周辺では捜査が慎重に再開され、名の知られた性犯罪者による尋問という、もう1つの巡回が行われた。1985年12月、警察はロストフ周辺の鉄道駅での巡回を続けていた。チカチーロは、警察の捜査を2年以上慎重に注視しており、自身の欲望を抑制した。

警察は連続殺人の捜査協議で、ソ連の精神医学者の意見を求めるという手段も取った。特に、アレクサンドル・ブハノフスキー博士が主任捜査官ブラコフ中佐の依頼により行ったプロファイリングは、極めて正確に連続殺人犯の人物像をとらえていた。しかし、捜査体制が一新され、ゴルバチョフ政権の改革路線の推進という追い風にもかかわらず、捜査は長年にわたってソ連社会に蔓延している官僚主義とことなかれ主義の分厚い壁に阻まれ、犯人逮捕までに更なる時間と多数の犠牲者を要することとなった[6]

KGBの捜査介入、殺人の終焉編集

1985年、出張先のモスクワ市郊外で殺人を犯す。この事件をきっかけに、KGBの国内部門が捜査に乗り出し、コストイェフが派遣される。

多数のバス停と鉄道駅で、軍服を着た警官隊による巡回が実施された。狭くて小さなせわしい駅では、諜報活動員による巡回が行われた。この巡回の目的は、大きな鉄道駅やバス停へ犯人を行き来させないためであった。これにより、チカチーロは警察がいないことが明らかな小さな駅で犠牲者を探すことを余儀なくされた。警察の作戦には、売春婦かホームレスのような格好をさせた若い女性の諜報員も数多く参加させた。彼女らは、死体発見現場に沿って広範囲を旅するのと同様に、駅周辺を目的もなく歩き回り続けた。

しかし、彼は大きな誤りを犯した。彼の毒牙にかかった数多くの犠牲者が、警察による大規模な作戦につながったのである。主にロストフ地域周辺のほかの公的な場所と同様に、鉄道駅やバス停において陸軍まで加わった、数多くの大規模なパトロール隊が動員された。

チカチーロは1986年から1987年の約2年間、一切犯行を行っていない。このころにはペレストロイカの一環としてゴルバチョフが推進していたグラスノスチによる情報公開により、それまで秘匿されていた連続殺人事件の全容が一般に公表され、警察の捜査もそれまでの方針を改め、民間からの情報提供を広く募ることとなった。チカチーロはこの間に殺人犯の捜索にボランティアで協力している。

1988年、チカチーロは殺人を再開する。主にロストフから遠く離れた地域で活動(殺人)した。1990年1月から11月のあいだに少年7人と女性2人を殺害している。

1990年11月6日、スヴェータ・コロスティック(Sveta Korostik)という22歳の女性を殺害し、体を切断した。実質的に、これが最後の犠牲者である。殺害後、顔に返り血を付着させたまま現場付近を歩いていたチカチーロが、警察官の目にとまる。民警が彼の勤務記録を調べた結果、犯行日時と出張記録が完全に一致し、民警およびKGBの監視下に置かれる。事件のあとでさえ、警察はチカチーロを逮捕・起訴するだけの十分な証拠がなかった。しかし、チカチーロは絶えず諜報員の追跡を受け、ビデオテープに撮られるなどして、警察の監視下にあった。

11月20日、それ以上チカチーロを泳がせておくのは危険だと判断した民警とKGBは、同日午後3時44分、職場から帰宅するところを逮捕した。逮捕時の様子は警察によりVTR撮影され、時折TVなどで放送されることがある。なお、犠牲者のなかに民警中尉の子女がいたことから、報復を避けるため、取り調べはKGBロストフ支部の建物で民警・KGB合同で行なわれた。取り調べは主にコストイェフ大佐が担当した。

警察は、犯行現場で犠牲者とチカチーロとの乱暴なやり取りの痕跡を数多く発見した。

チカチーロの指の1本には傷があった。チカチーロは職場で荷降ろし作業中、誤って荷物とパレットの間に指を挟んで出来たものだと主張したが、検査した医療検査官は、チカチーロの傷は誰かに噛まれてできたものと結論付けた。後日、指を怪我していたことが分かったにもかかわらず、チカチーロは傷の治療を要求することはなかった。

警察は、自分を尋問し、自白させる警察長官を含めて、自分が病気持ちで医者の助けを必要とする者であるとチカチーロに信じさせるという計画を決めた。この計画は、自白することで精神異常という理由で起訴されることはないという希望をチカチーロに抱かせた。チカチーロの尋問には、最終的に精神科医の手助けが依頼された。

長い話のあと、チカチーロは犯行を自供した。ところが、自白はチカチーロを起訴するのに十分ではなく、より厳然たる証拠が必要であった。チカチーロは、警察がまだ発見できていない埋められた死体を明らかにして自分から証拠を提供した。これにより、当局はチカチーロを起訴するのに十分な証拠を得た。11月30日から12月5日までのあいだに、チカチーロは50以上の殺人を自白した。犠牲者のうち、3人が埋められており、発見・確認が取れなかった。チカチーロのほとんどの自白は、36人を殺害した犯人を目録に入れてある警察に衝撃を与えた。犠牲者の多くが他者との接点がなかったのは、チカチーロが犠牲者を探していた土地から遠く離れた場所で殺されていたためで、チカチーロが警察を先導するまで、埋められた犠牲者は発見されなかった。


裁判編集

勾留編集

チカチーロが刑務所に勾留されているあいだは、特別な警戒が取られた。暴力的な、とくに子供に対する性犯罪は、ロシアの暗黒街では禁忌である。ロシアの刑務所では、子供への強姦や殺人で収監された囚人は、監禁室の囚人たちから虐待され、ときおり殺される。

チカチーロが独房にいるあいだは、ビデオによる監視が行われた。容疑者は取調官の前でしばしば奇矯な振る舞いをするが、チカチーロの態度は独房の中では正常であった。チカチーロはよく食べ、よく眠り、毎朝運動し、広く本や新聞を読んだ。ほとんどの時間を使って手紙を書いたり、政府高官、マスメディア、家族に対して不満を言った。

勾留中、妻のフェーニャと一度だけ面会している。チカチーロ逮捕後、世間の糾弾にさらされた家族はKGBの特別な計らいにより名前を変え、新しい身分で別の土地で人生をやり直さざるを得なくなっていた。このときの面会は互いに望んで行われたものではなく、チカチーロの銀行口座を解約する際に必要な委任状のサインをもらうためであった。短い面会の中で、チカチーロはフェーニャに「お前に言われた通り、俺は病院で(性的不能の)治療を受けるべきだったよ」と後悔の念を述べ、家族に苦しい思いをさせたことについて謝罪している。

裁判・処刑編集

チカチーロに対する取り調べと裏付捜査は続いた。チカチーロの身柄はロストフからモスクワにあるセルベスキー司法精神医学研究所へ移され、長期にわたる精神鑑定が行われた。鑑定のさなかの1991年8月19日ソ連8月クーデターが発生し、ソ連が崩壊する。このような状況下でも着々と捜査と精神鑑定は進み、検察側は最終的に膨大な証拠と証言を200冊にわたる浩瀚なファイルとしてまとめ、長大な起訴状とともに法廷へ提出した。長期にわたる精神鑑定で、司法精神医学研究所の鑑定医は「チカチーロに責任能力あり」とするレポートを作成した。

1992年4月14日、ロストフ地方裁判所にて半年におよぶ裁判が始まった。この裁判はソ連崩壊後のロシアのトップニュースとして国内外で大きな関心を集め、国外からも多くの報道陣が取材のため連日法廷へ詰めかけた。出廷したチカチーロはシラミ除けのために頭を完全に剃り上げ、モスクワオリンピックロゴ入り開襟シャツを着て法廷に現れた。裁判では、法廷の中央で鉄の檻が設置され、チカチーロはその中に入れられた[7]

裁判での彼の態度は異常で分裂的であった。公判の最中にズボンを脱いで性器を露出させたり、法廷に持ち込んだポルノ写真を高々と掲げたり、自慰を始めたり、ソ連当時の国歌を歌ったり、ウクライナ語の通訳を要求した。ズボンを下ろして自分の性器を露出し、自分は同性愛者ではないと叫び、自分が今までに自白した殺人を否定するかと思えば、逆に犠牲者の数が少なすぎると言い出したり、挙句の果てに「俺は妊娠している」「あたしは女なのよ」「僕の脳はチェルノブイリの放射能に汚染されているんだ」などと支離滅裂なことを口走るという奇矯なふるまいをし、嘲笑を誘う陳述を何度か行った。

法廷から「サディスト!」「人殺し!」といった罵声を浴びせられると、チカチーロは声のした方へ笑いながら手を振った。チカチーロの犠牲者の遺族たちは彼に対する復讐を叫び、侮蔑の言葉を浴びせたが、チカチーロもまた犠牲者や遺族をどぎつい言葉で嘲笑した。遺族の一部は、チカチーロを檻の中から出して自分たちの手で彼を処刑できる権利を要求した。犠牲者の名前が挙がったとき、失神する遺族たちが数多く出た。被害者を侮辱する罵詈雑言を浴びせたことで遺族の感情を逆撫でし、たびたび激怒した裁判長レオニード・アクブジャノフに退廷を命ぜられた。また、チカチーロの弁護を担当した弁護士のマラート・ハビブーリンも、チカチーロのこのような態度を厳しく批判した。チカチーロは、精神異常による無罪を望んでいたのである。

最後の裁判の日、チカチーロは歌を歌って審理を中断させ、退廷させられた。退廷間際、チカチーロに妹を惨殺された遺族の青年が、隠し持っていた鉄棒をチカチーロに投げつけるハプニングもあった。鉄棒はチカチーロをかすめて、壁に突き刺さった。発言ができる最後の機会で、彼は沈黙したままであった。

1992年10月14日、チカチーロは52件の殺人罪で有罪判決を受け、死刑を宣告された。アクブジャノフは次のように述べた。「彼が犯した途方もない犯罪を考慮すると、彼は刑罰を受けるに値する。私は彼を死刑に処す」。

判決を受けたチカチーロは、判事に「イカサマだ! お前の嘘なんか聞かねえぞ!」と罵倒したという。一方で、判決を聞いた聴衆や犠牲者の遺族は拍手喝采を送った。チカチーロに話す機会が与えられると、彼は取り留めのない話をした。政治体制、政治指導者、自身の性的不能、そして1930年代のウクライナ飢饉のころの経験による自主防衛を非難した。チカチーロは「何の価値もない人間を掃除する」ことで社会に貢献したと主張した。チカチーロは、判決を不服として上告する。

1994年2月14日、ロシア連邦大統領(当時)のボリス・エリツィンは、寛大な措置の請願を土壇場で拒絶した。

ロストフの刑務所内にある防音措置を施された部屋に連れて行かれたチカチーロは、右耳に銃弾を受けて処刑された(銃殺刑)。57歳没。死後脳は日本人に買い取られたという[8]