【新潟少女監禁事件 】9年間監禁された少女は逃げることを諦めたのか。恐怖支配の恐ろしさ。
事件概要
| 発生日時 | 1990年(平成2年)11月13日午後5時頃 |
| 発生場所 | 新潟県三条市の路上 |
| 内容 | 当時9歳の少女が誘拐され、その後約9年間監禁された |
| 被害者 | 当時9歳の少女 |
| 犯人 | 新潟県柏崎市在住だった 佐藤宣行(犯行当時28歳) 2017年ごろ死亡したとされる |
| 判決 | 懲役14年 2015年4月に満期出所 |
事件現場となった家

犯人 佐藤宣行について

生年月日:1962年7月15日
(犯行当時28歳)
両親の年老いてからの子供ということもあり、成人後も「ボクちゃん」と呼ばれて溺愛されていた。
【中学1年の時】
不潔恐怖症と診断される。
父親も同じく不潔恐怖症であった。
【工業高校時代】
ナヨナヨした話し方から「オカマ」と呼ばれる。家の中で鬱憤を晴らすようになった。
就職するも数ヶ月で退社
高校卒業後
自動車部品製造の工員となった。
しかし出勤途中に立小便をした際に「クモの巣にかかって汚れた」と家に引き返すなどの奇行が続く。
結局、数ヶ月で退職し、以降は全く働いていない。
激昂し放火
1981年7月(19歳の時)
年老いた父親が薄汚れて見える存在になり、父親を家から追い出した。
約半年後、母親と口論になる。母親から「私も出ていく」と言われ激昂。
家の仏壇に火をつけ、危うく火事になりかけるという事があった。
そして精神科にて強迫神経症(不潔恐怖)と診断されたのもこの頃だ。
即日入院し、向精神薬を投与された。このときは1ヶ月ほどで良くなり退院する。
自立するための自宅増築を頼む
1985年夏 (23歳の時)
母親に「自立するために、独立して生活できるよう家を増築してほしい」と話す。
息子が就職口を見つけて真面目に働くと思った母親は700万円で家の増築を決めた。
しかし佐藤は、2階の自室に工事業者が入る事を頑に拒否。
結果、増築は中途半端なまま中止となり、就職の約束もなくなってしまう。
佐藤の母親への態度
佐藤は母親に買い物に行かせたり、自身の送迎をさせていたりした。
(好きなアイドル歌手のレコードや、競馬新聞など)
母親は商店の人達のあいだで有名人となっていた。
競馬場への車での送迎の際、レースが終わるまでベンチに腰かけて待っている母親の姿が、常連の間でも知られていた。
佐藤は競馬に勝つと、母親になじみの寿司屋で極上のトロのにぎり10個(8000円分)を買わせることが何度かあったという。
強制わいせつ未遂で現行犯逮捕
1989年6月13日
佐藤は強制わいせつ目的で下校途中だった小学4年(9歳)の少女を空き地に連れ込もうとしたが、別の児童の通報により学校事務員に取り押さえられ、強制わいせつ未遂で現行犯逮捕された。
前科者リストへの登録漏れ
1989年9月19日
佐藤は懲役1年・執行猶予3年の有罪判決を言い渡される。
そして再犯の可能性は低いとされ、保護観察処分ではなく、母親に監督・指導が任されることとなる。
柏崎署と新潟県警本部は佐藤を「前歴者リスト」に登録しておらず、刑が確定したあとも登録漏れのまま放置していた。
この年に老人介護施設に入所していた父親が亡くなっている。
被害少女の誘拐
1990年(平成2年)11月13日午後5時頃(佐藤は執行猶予中)
佐藤は乗用車での移動中に下校途中の少女を発見する。
「女の子が可愛かったし、側に誰もいなかったので」
この理由で誘拐を決意。
犯行の手口
佐藤はいったん少女を車で追い抜いてから目前で停車。
ナイフを手に車から降り少女へ接近した。
そして、少女の胸にナイフを突きつけて「おとなしくしろ。声を出すな」などと脅迫。
身動きできない少女の背後に回って車の後部に連行した。
そして車のトランクを開け「入れ」と指示したが、少女が入ろうとしなかったため、身体を抱え上げて押し込め、トランクを閉めて車を発進させた。
その後しばらくして佐藤は一度トランク内に監禁していた少女の様子を確認するため停車し、粘着テープで少女の両手足を緊縛し、目隠しもした。
母親に見られないよう少女を部屋へ
佐藤は母親にバレないよう自室に入れ、目隠しを外した。
監禁開始
佐藤は部屋へ入れた少女に対し
「誘拐されて殺されちゃった女の子みたいにおまえもなってみたいか」
「この部屋からは出られないぞ。ずっとここで暮らすんだ。約束を守らなかったらお前なんか要らなくなる。山に埋めてやる。海に浮かべる」
などと脅迫的な言葉を浴びせた。
少女が「三条市の家に帰れるの。お父さん、お母さんの家に帰れるの」と尋ねると、男は「だめだな。これからおれと一緒に暮らすんだ」と応えている。
監禁の状況
・脅迫的な文言を繰り返し浴びせる
・ナイフを突きつける
・顔面を数十回殴打するといった暴行
最初の2~3カ月間は自身の外出や就寝の際には少女の両手足を緊縛して身動きが取れないようにしていた。
その後両手の緊縛は解かれたものの、両脚の緊縛については1年ほど続き、少女の脱出意志を喪失させた。
・大声を出さないこと
・男が部屋を出入りする際には顔を隠したり毛布に潜ったりすること
・自室のセミダブルベッドから許可なく降りないこと
・暴れないこと
などを命令し、これを破った際には暴行を加えた。
暴行
佐藤は暴行の道具としてスタンガン(男が母親に命じて買わせたもの)を使用し始めた。
少女は「叫び声を上げたら刺されると思い」自分の身体や毛布を噛むなどして声をあげることなく耐えたという。
また、男の生活に関わる雑用をこなさなかったり、プロレス技を掛けられ少女が苦痛に声をあげたときなどにも、「スタンガンの刑」と称して暴行が加えられた。
男は監禁期間中、軽い殴打は700回程度、力を込めた殴打は200から300回程度に及んだと供述している。
少女の防御反応
少女はある時期から、目を殴られると失明すると思い自ら頬を差しだしたり、スタンガンの痛みに慣れるため自らの身体に使用するといった行動もとるようになった。
また、暴行を受けている最中に「殴られているのは自分ではない」と第三者的立場を仮想して防衛機制を働かせる解離性障害の症状も出ていた。
食事
食事は佐藤の母親が用意していものを与えられていたた。
内容は、佐藤の夜食用として用意された重箱詰めの弁当であった。
その後、高齢であった母親の負担を考慮した佐藤が自らコンビニエンスストアで売られている弁当に切り替えた。
1996年頃、佐藤は少女の足に痣ができているのを発見。
佐藤はこれを高タンパク由来のものと考え糖尿病に進行することを危惧した。
「運動をしない以上、減らすしかない」と考え、少女の食事を1日1食に減らした。
数ヶ月後から少女は体調を悪化させていった。
佐藤が少女の体重を計測すると46kgから38kgまで減少していた。
そして少女は失神を起こすようになったが、佐藤は弁当におにぎりを一つ足したのみであった。
運動の制限
少女に許されていた唯一の運動は、ベッドの上で行う脚部の屈伸のみだった。
その後糖尿病予防のため床上での足踏みが許されたが、階下に母親がいる時には、母親に存在が知られないよう、それも禁止された。
少女の筋肉は著しく萎縮し、男の腕に掴まってようやく立てる状態であった。
発見後の検査では著しい栄養不良に加え、両下肢筋力低下、骨粗鬆症、鉄欠乏性貧血などが認められ、通常歩行は不可能な状態だった。
衛生環境
佐藤は、潔癖症のためトイレが使えずビニール袋に排泄していた。
そのため少女も佐藤のようにビニール袋での排泄を強いられていた。
排泄後の袋は部屋の外の廊下に放置されていた。
男は自分が部屋を出るときに少女に顔を覆わせていた理由について
「廊下にビニール袋が並んでいるのを見られたくなかったから」とも述べている。
こうした環境下に置きながら、少女が監禁中に入浴したのは、ベッドから誤って落下し埃まみれになった際に、目隠しをしたままシャワーを浴びせられたことが1回あるのみだった。
家庭内暴力
1996年1月(監禁開始から約5年後)
母親が佐藤の家庭内暴力を保健所に訴えた。
職員は家庭訪問を提案するも、母親は男が暴れると考え断っている。
そこで母親は代替案として指示された精神病院に行くこととなる。
佐藤はそこで向精神薬を処方され服用していた。
少女へ与えたもの
佐藤は少女への虐待の一方で、漫画や新聞などを与えていた。
テレビ、ラジオで流れるニュースなどの内容や、男の嗜好する事柄について少女と語り合うことを好んだ。
時事についての議論もしており、その理由は
「彼女の考えが子供のままでいないように」するためであったという。
また「因数分解なんかは世の中では役に立たないけど、比例式は覚えた方が良いので教えました」と供述している。
激しくなる家庭内暴力
1999年頃から
男は母親に対してもスタンガンを使用し始める。
再び精神病院を訪れた母親は「このところ息子の暴力がひどい。自分の意のままにならないと殴る蹴るのうえに、私を縛り付けて、トイレにさえ行かしてくれない」と、男の家庭内暴力が激しさを増していることを訴えた。
担当医師は強制的手段として医療保護入院(強制入院)を提案。
母親もこれに同意した。
2000年1月19日
医療保護入院(強制入院)を判断するため保健所職員と柏崎市職員が佐藤宅を訪れた。
しかし佐藤が部屋に閉じこもったため面会はできなかった。
後日、精神病院、保健所、市役所などが協議を行い、医療保護入院の実施日が決定された。
それに向けて専門チームも作られている。
事件の発覚
少女の保護と被疑者の逮捕
2000年1月28日
医療保護入院(強制入院)の実施のため、医療関係者、保健所職員および市職員など7名が佐藤宅を訪問。
「お母さんの依頼で診察に参りました」と告げ、返事を待たず部屋に入った。
ベッドで寝ていた佐藤はこれに気付き「なんで入ってくるんだ!」と抗議。
これに対し指定医が法律を説明し、「あなたは入院が必要であると認定されました」と告知した。
すると佐藤は激しく暴れだす。
暴れる佐藤に、医師が鎮静剤を注射。
効果が現れるまで男は抵抗を続けたが、やがて鎮静化し眠りに落ちた。
毛布に隠れていた少女
その後、関係者の注意は騒動の間にも動いていた様子があった毛布の塊に向けらる。
市職員が毛布をハサミで切り開くと、中から異様に色白な短髪の少女が現れた。
市職員は「あなたは誰ですか。話をしてください」「名前は?どこから来たの」などと問い掛けた。
少女は口ごもり「気持ちの整理が付かないから」と話したという。
指定医が階下にいた佐藤の母親を呼び出し、「この女性は誰か」と訊ねた。
しかし母親は「知りません。顔を見たこともない」と答えている。
指定医は少女に「一緒にいた佐藤さんは入院することになったので、ここにはいつ帰ってくるか分かりません。あなたはどうしますか」と訊ねた。
すると少女は佐藤の母親に向けて「ここにいても、いいですか」と訊ねている。
母親は了承したが、市職員らが「そういう問題じゃないでしょ。家の人に連絡しないとだめよ」とたしなめると、少女は「私の家は、もうないかもしれない」と話した。
また、母親の裁判での供述によると、母親が「あなたのお家はどこ?」と訊ねると、少女は「ここかもね」と答えたとされる。
その後、近郊の病院へ向かった。
病院へ向かう車中で病院職員が少女に改めて名前をたずねると、自身の名前と住所、生年月日、両親の名前などを答えた。
その情報に覚えがあった職員は三条市で行方不明となった少女に思い当たり、病院到着後に少女から聞いた番号へ電話を掛けたが、呼び出し音が鳴ったものの誰も出なかった。
職員は次いで柏崎署に連絡を取り、発見された少女が三条市で行方不明になった少女と同一人物であることが確認された。
2000年1月28日夜
三条市から少女の母親が駆けつけ、9年2カ月ぶりの再会を果たした。
佐藤宣行 逮捕
一方、同じく病院に搬送された佐藤はそのまま医療目的で収容された。
警察は早期の身柄引き渡しを要求したが、医師から医療優先の方針を伝えられ2週間の入院をする。
その後、回復した男は警察車両に乗せられて裏口から退院、逮捕された。
少女を友達だとおもっていた。
里は少女を「友達」と認識していたという。
「被害者は、私の言いつけを本当によく守るようになりました。これからはずっと、一緒に暮らしたいと思いました。競馬や自動車など、対等に話ができた。被害者のことは、基本的に好きだった。同世代の女性と思っていた。かけがえのない話し相手だったので、解放することはできませんでした」と供述し、また初公判で読み上げられた少女の供述調書の内容に、「自分はうまくやっていたと思っていたのに、実は恨まれていたんだとわかった」
事件に気づかなかった母親
母親への監禁幇助の疑い
週刊誌やワイドショーでは母親の共犯を匂わせるような報道も行われていたが、事情聴取に対し母親は「監禁を知らなかった」、「2階には何年も上がっていない」と供述している。
捜査の結果、佐藤の部屋を含む2階全体から母親の指紋が一切検出されなかった。
少女による「母親が住んでいることさえ知らなかった」という供述からその言葉が裏付けられ、母親は立件されず重要参考人となるに留まった。
「高齢で生んだ子だから、かわいがってしまった。甘やかしたつもりはないが、欲しがるものは何でも買ってやった」
逃げる機会はなかったのか
「9年2カ月もの間に逃げる機会はなかったのか」という疑問が出されることがある。
しかし少女が監禁状態にあるとき、犯人と運命共同体であるかのように錯覚し始め、やがて犯人への共感を示すようになるストックホルム症候群の状態にあったのではないかとの見方もあった。
「縛られなくなってからも、常に見えないガムテープで手足を縛られているような感覚でした。気力をなくし、生きるためにこの部屋から出ない方がいいと思いました。男は気に入らないとナイフを突きつけるので、生きた心地がしませんでした。大声で泣きたかったけど、叫び声を押し殺しました。けっして男と一緒にいたかったわけではありません」 -少女の供述より-
また少女は男について「憎いとか怖いとか、そんな感情を出すのがもったいないほど、最低の人だ」と語っている。
元少女が語ったこと
女性は親族以外に自分から人に会うことはなかったという。
「私の頭の中は小学校4年生でギャップがある。人には会ってみたいというより、こっそりのぞいてみたい」
母親が出廷することを伝えられた際には、母親が裁判所で佐藤と同じ空気を吸うことに強い嫌悪感を示した。
「私の前から、すべての人の前からいなくなってほしい」
少女の両親の訴え
「子育ての楽しみを奪われた。(佐藤被告は)何年か後に出てくると思うが、その時が怖い。安心して暮らしていけない」-少女の母親-
「9年、10年の時間が埋まりません」
「時間を戻し、やり直しができるようにしてほしい。憎いとか辛いとかの気持ちを言葉に出すことがもったいない」-少女の父親-
精神鑑定
医師が佐藤に診断した病名
・分裂病質人格障害
・強迫性障害
・自己愛性人格障害
・小児性愛
判決
2003年7月
懲役14年の刑が確定。
母親が亡くなる
佐藤の母親は佐藤の収監後に認知症が進み老人介護施設に入所した。
2003年(平成15年)ごろから面会に訪れなくなり、佐藤の服役中に死亡している。
警察の不祥事
事件そのものについての報道のほか、警察の捜査不備や不祥事についての報道も盛んに行われ、県警本部長が辞職、警察庁長官が国家公安委員会から処分を受けるという事態も起きた(新潟県警の不祥事)。
佐藤宣行のその後
懲役14年の刑が確定した佐藤は収監されたが、公判中から減少していた体重がさらに減った。
そして歩行に介助が必要な状態となり、八王子医療刑務所に移され治療を受けたと伝えられる。
その後千葉刑務所に服役し、2015年4月(52歳)に満期出所したとされている。
佐藤宣行の死
アパートの自室で病死していたと報道されている。
佐藤は服役中に精神障害者と認定、障害者2級の手帳を取得した。
出所した佐藤は千葉県千葉市のアパートで生活保護を受けながらひとりで生活していた。
別姓で暮らしていたため、周りの人間は「新潟少女監禁事件」の犯人だった事を知らなかった。
2017年頃(54歳)
自室で倒れているのを発見される。
検視により病死が確認された。病名は明かされていない。
事件をモチーフとした作品
残虐記 桐野夏生作のミステリー小説。
9歳の時に誘拐され男と1年余りの監禁生活を送った経験を持つ女流作家が、出所した男からの手紙を受け取ったことをきっかけとして、事件の内容と自身の来し方を綴った私小説「残虐記」の原稿を残し失踪するところから物語が始まる。2004年度の柴田錬三郎賞を受賞。
2020年8月19日 投稿
2024年11月7日 改稿
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