尼崎事件 ワケが分からなくなる大量殺人事件を出来るだけ時系列に

尼崎事件 ワケが分からなくなる大量殺人事件を出来るだけ時系列に
目次

角田美代子の生い立ち

1948年 尼崎市に生まれる。

美代子が小学2年のときに両親は離婚、父方に引き取られたが角田は母方の姓で、父方は月岡という。

何度か転居しながら市内で育った。

美代子は若いころから叔父のところへ親しく行き来し、一緒になってトラブルを起こしたこともあったという。かつての隣人は「とにかくややこしい、怖い一家だった」と振り返る。

左官の手配師をやっていた父は気性が荒く、家に出入りする若い職人たちを力でねじ伏せ、中学の時に美代子が問題を起こしても「どっちみちうちの(美代子)が原因やろ。もうええわ」と突き放したような言い方をする人間だったという。

10代の頃に実母に仕事を紹介され働き始めるも、その仕事というのは売春。

市内の繁華街でスナックをしていたが二階で売春の斡旋をしていたとの情報もある。

美代子は、祖母宅に立ち寄った際、男性宅前に車を止めていて駐車違反の取り締まりを受け、男性が通報したと因縁を付けた。

男性が否定しても、自分の当時の交際相手まで呼び出し、2人がかりで何度も謝罪を求めたという。
男性は「若いのに暴力団かと思うぐらいの迫力でののしられ、会う度ににらまれた」と振り返る。

事件のキーマン 義妹・角田三枝子

義理の妹である角田三枝子

幼少のころから家族ぐるみで行き来する。

三枝子が18歳の頃から、美代子の母親の家を間借りしていたがなじめず、約1年後、両親のもとに戻った。

その後、美代子から両親とともにののしられ続けた。美代子の激しい怒りをおさめるには、共同生活に戻るしかなかった。

これを機に美代子と三枝子の主従関係が決定づけられた。

結婚と離婚

元夫は尼崎市内の高校を卒業後、地元の工場で働いていたときに、美代子被告と親しくなった。

美代子が23歳で結婚、ごく簡単な式を挙げたという。

しかし、1~2年ほど経った20代半ばで離婚。

元夫の友人は美代子の結婚生活について

「離婚時、元夫は25歳にもなっていなかった。なかなかの美男だし、再婚してもおかしくなかったが、独身を貫いた。結婚生活は悲惨だったらしく、美代子は何日も家に帰らず遊びまわり、突然、大勢の友人を家に連れてきてどんちゃん騒ぎ。炊事、洗濯など家事はほとんどしない。気にいらないことがあると大暴れして手がつけられない。同級生の女の子を風俗にあっせんするようなことまでしており、警察から目をつけられていたとか。『結婚って、えらいもんや。美代子のとんでもない行状にあきれた。もう女はいらんわ』と嘆いていましたよ」

とインタビューに答えている。

離婚後、横浜に移り住む。

幼少期から付き合いのあった義妹、角田三枝子とラウンジ(飲食業)や輸入代行業を共同経営をしていた。

この頃、内縁関係となる東頼太郎と知り合う。

1981年33歳のとき事業に失敗し、尼崎に戻る。

当初は内縁の東、三枝子と3人暮らし。

その後、部屋を増やして10人ほどのとりまきを住まわせていた。

近隣住民からは、因縁をつけるクレーマー気質・トラブルメイカーとして知られ、とりまきを連れた威圧的な態度から「関わり合いになりたくない」と思われていた。

事件のはじまり 

この事件はいくつもの家族や人物が絡み合い、加害者と被害者が分かりづらく、更に詳細も不明なこともあります。行方不明、死亡についてに重点を置き、出来るだけ分かりやすいように時系列表記にしています。

乗っ取り事件① 橋本家

一人目 三枝子の義母(夫の母) 失踪事件(1987年頃)

1927-1928年生まれ。

1987年頃に美代子の自宅などで家族らから暴行を受けて殺害され、尼崎の海に遺体を遺棄されたとの証言がある。

2014年2月にこれらの供述に基づいて、遺体が遺棄されたとされる現場を捜索したが、発見には至らず、捜索は打ち切られた。

二人目 三枝子の義姉(夫の姉) 失踪事件(1997年頃)

詳細不明。

乗っ取り事件② I家(1998年3月~2000年1月) 

1998年3月、美代子の遠縁にあたるI家母の姉の葬儀が行われた。

その葬儀に関して、参列していた美代子が「段取りが悪い」などとI家母らに難癖をつけてきた。

美代子は、親族を集め問題解決のための会議を頻繁にさせた。暴力団の存在をほのめかしつつ、威圧的に会議を取り仕切る一方で、けがをした人物の世話をしたり、借金を抱えていた人物の相談に乗るなど、I家親族への影響力を強めていった。

さらに、美代子は、親族らに互いの不満を言い合わせるようになり、やがて親族同士で暴力や虐待を行わせるようになる。

最初に矛先となったのはI家母で、叩かれたり、長時間立たされたり、飲食の制限をされるなどの虐待を受けていた。

暴力や虐待を加えていたのは、主に息子達。

美代子は指示するのみで、直接手を出すことはなかったという。

こうして支配を強めていった美代子は、様々なことを口実にして、息子らに退職を強要したり、家を売らせたりもしており、おそらく退職金や家の売却金を奪ったと思われる。

ある親族の借金の肩代わりと称して、葬儀トラブルとは無関係の高知市の親類が、美代子らに押しかけられて、やむなく千数百万円を渡したという話もある。

やがて、兵庫県西宮市にマンションを借り、そこで集団生活をさせられるようになる。

また、その頃美代子は、I家祖母息子夫婦を次々に離婚させ、さらには、孫のうち2名を養子にしている。

集団生活から脱走する者も続出したが、その多くは、他の親族らに居場所を発見され、連れ戻されていたという。

三人目 乗っ取り事件②のI家祖母の不審死(1999年3月)

1999年3月に病死とされているが、死亡前には、親族らによる暴行や飲食制限などの虐待を受けていたとの話もある。

この死亡に関しても捜査が行われたが、不審な点は見当たらなかったとして、事件化されることはなかった。

I家祖母の孫らも美代子に呼び出され、しばらくすると、美代子と親しくするようになり、親には反抗的な態度をとるようになった。

I家の息子夫婦らは自身の子供を人質にとられた状態になり、一層、美代子とは隷属的な関係に陥ってしまったのではないかと思われる。

四人目 乗っ取り事件②のI家祖母の息子(66歳) 行方不明(1998年)

詳細不明

五人目 乗っ取り事件②のI家祖母の孫(24歳) 転落死事件(1999年)

当時軟禁されていた兵庫県西宮市のマンションから飛び降り自殺したとされる。美代子により行われていた「親族会議」の最中に、突然走り出し、飛び降りたとの証言もある。

この死亡に関しても捜査が行われたが、不審な点は見当たらなかったとして、事件化されることはなかった。

警察への通報と逮捕されるための作戦

こういった異常な状況に対し、虐待の事実を知った近隣住民が、警察に通報することもあったが、被害者が、美代子による身内への報復を恐れて、被害を訴えようとしなかった。

また、被害者の中には、警察に何度か相談する者もいたが、親族間の揉め事と処理されるなどして、一度も事件化されることはなかった。

そんな警察の対応に業を煮やし、それなら警察に動いてもらうために事件を起こしてやろう、と考えた者がいた。I家祖母の甥である。

甥は美代子に窃盗をやろうと提案した。美代子は、その話に乗り、I家親族らに窃盗をさせるようになった。

そして2000年1月、甥は警察に窃盗行為を告白し、自らも含めて、美代子と親族らは窃盗容疑で逮捕される。

この逮捕により、親族らは、美代子から解放されることとなった。

ところが、美代子と養子縁組をしていた2名のうち、1名は縁組を解消したが、もう1名はそれ以降も美代子と縁組を解消せずに、最後まで共同生活を続け、一連の事件で殺人罪などで起訴されている(角田健太郎)

六人目 角田健太郎の兄(36歳) 行方不明(2000年)

詳細不明。

乗っ取り事件③ 皆吉家、谷本家(2001年ごろ)

皆吉家の長女(皆吉初代)の嫁ぎ先が谷本家なので、両家は親戚関係である。

※皆吉初代は、夫、谷本氏と離婚しているため旧姓である皆吉初代(以下、ハツヨ)と記載する。

経緯は不明だが、皆吉家の長男(元小学校用務員)、皆吉家の次男、美代子の義理のいとこ李正則の3人は、美代子のマンションで共同生活をしていた。

2002年11月、皆吉家の長男は美代子により学校用務員の仕事を辞めさせられ、退職金の多くを奪われていた。

そして、皆吉家の長男が美代子に借金をしていると称して、その返済をめぐって、皆吉家母や皆吉家次女が、金策に追われているらしき様子が確認されている。

2003年2月、尼崎市の実家に帰省していた初代が高松市の嫁ぎ先である谷本家の夫に泣きながら「迎えにきて」と電話をしてきた。

夫が尼崎に出向くと、美代子から、美代子の義理のいとこ李正則を更正のために預かってくれと頼まれた。

李正則とは面識があり、少年時代には親しくしていたこともあったが、年頃の娘がいたこともあり、一旦は断ったものの、どうしてもと強く頼まれ、結局、高松市に連れ帰ることになった。

しかし、李正則は高松市の谷本家の家で、金銭を要求したり暴れたりしたために手に負えなくなり、数日後に谷本家夫は美代子に、これ以上預かることができないと電話をした。

すると、美代子は、預かることができなかったことに対して怒り、自分の身内やハツヨの親族ら10人ほど連れて、高松市の家に押しかけてきた。

有無を言わせぬ状況で、家に居座り始め、李正則の面倒を見ることができない代償や、皆吉家長男の借金問題を口実に、金を工面するよう求め、谷本家の親族も集めて会議をさせた。

会議では、美代子の指示により、親族同士の暴力や虐待が行われた。

主にその対象となったのは皆吉家母だったという。

また、当時20歳の皆吉家長女と17歳の谷本家次女も両親への暴力を強要され、やがて、谷本家次女は美代子に心酔するようになり、通っていた名門高校を中退した。

谷本家は、親戚からかき集めるなどして、約2000万円を美代子に渡した。

さらに、話し合いの末に、谷本家夫とハツヨは離婚することになった。

そして、40日程居座った美代子らは尼崎に引きあげた。

ハツヨは、娘2人を連れて尼崎市に転居したが、他の親族らとともに、美代子のもとで生活をしていたようである。

七人目 乗っ取り事件③の皆吉家 母 死亡(2003年3月)

美代子の自宅マンションで、美代子らにより、飲食制限などの虐待や暴行を受けた末に死亡したとされる。

遺体は高松市の谷本家の家屋に隣接する倉庫の床下地中に遺棄された。

死亡前の2003年2月頃には、谷本家の家でも、暴行や、虐待行為が確認されている。

2012年12月に逮捕者の供述に基づき、遺体が発見される。

それから一月ほど経った2003年5月、一人で暮らす谷本家夫のところへ、美代子が「ハツヨがだらしないから迎えにこい」と、電話をかけてきた。

谷本家夫が尼崎に出向いて、ハツヨを高松に連れて帰ると、その直後に美代子が谷本家長女と次女を伴い、やってきた。

そして、尼崎で美代子に挨拶をしていなかったということで、谷本家長女と次女が両親を責めて暴行を加えた。

さらに、美代子は、再び身内や李正則、そして皆吉家の親族を高松に呼び寄せ、谷本家に居座り始めた。

以前と同じように、金銭を要求され、谷本家夫やハツヨへの暴力、虐待も行われた。暴力を振るっていたのは、主に娘や李正則だったという。

谷本家夫の兄(隆さん)が心配して来てくれたが、軟禁状態にされ、しばらくすると、美代子の指示で、自身の弟である谷本家夫に暴力を振るうようになっていった。

こうした状況に対して、被害者やその親族、近隣住民らからの警察への通報、相談は合計36回あったが、主に暴力を振るっていたのが、娘ら身内であることから、被害届を出すのに消極的だったり、また、金銭問題などは親族間の問題として、いずれも事件化されることはなかった。

2003年8月、谷本家夫は監視の隙をついて、ハツヨと谷本家長女を逃がしたが、谷本家長女は途中で発見され、連れ戻されてしまった。

以降、さらに谷本家夫への暴力は酷くなり、身の危険を感じた谷本家夫は一旦、家を離れることを決意し、9月に家を出て、親類宅などに避難した。

標的を失った美代子らが、娘らを解放して、尼崎に戻るのではないかと意図しての行動だったが、しばらくしてから戻ってくると、家はもぬけの殻になっていた。

10月頃に美代子らが尼崎に引き上げた際に、娘や兄も連れ帰っていた。

八人目 乗っ取り事件③の皆吉家 次女(60歳)行方不明(2003年)

詳細不明。

九人目 乗っ取り事件③の谷本家兄、隆さん 死亡(60歳)(2004年1月)

美代子の自宅マンションで、美代子らにより、食事制限などの虐待や暴行を受けた末に死亡したとされる。

遺体は皆吉家母の家の床下地中に遺棄された。

2012年10月に逮捕者の供述に基づき、遺体が発見される。

十人目 乗っ取り事件①の橋本家 橋本久芳さん(51歳)保険金詐欺で死亡(2005年7月1日)

橋本久芳さんは、2001年に美代子の義理の妹、三枝子と結婚。

2005年7月1日、沖縄県恩納村の景勝地「万座毛」の崖から、記念撮影中に転落死する。

当時は事故として処理されたが、事件発覚後の捜査により、美代子らから自殺を強要され、自ら飛び降り、死亡した疑いがあることが、明らかになっている。

死亡の数カ月前から、美代子らにより、執拗に自殺するよう迫られており、死亡前日には「お別れ会」まで開かれていた。

さらに、被害者には多額の死亡保険金がかけられており、被害者の妻(三枝子)に、保険会社4社から計約7700万円が支払われた。

また、被害者が名義上所有していた美代子の自宅マンションの残りローン約3000万円も完済された。

十一人目 美代子と同居の安藤みつゑさん(71歳) 死亡 (2008年11月)

1941年生まれ。美代子の兄と交際したことがきっかけで、美代子と知り合うことになったと思われる。

家政婦的な存在として、美代子と長らく共同生活をしていた。

2000年に美代子が自宅マンションを購入する際の連帯債務者になっている。2008年11月頃に死亡したとされる。

十二人目 乗っ取り事件③の谷本家の長女(26歳) 死亡 (2008年)

2003年に拉致監禁され、2008年に再び逃亡するが、沖縄にて拉致。

暴行の末死亡、梶ヶ島の民家で遺体となって発見される。

十三人目 乗っ取り事件①の橋本家 橋本次郎さん(53歳)死亡(2011年)

橋本次郎さんは、美代子の義理の妹・三枝子の夫(沖縄で自殺させられた)の兄弟である。

2007年に皆吉家の次男と逃亡するも、2009年に連れ戻される。

2011年7月下旬に同居人とトラブルになり、それに激高した美代子らにより激しく暴行され、美代子の自宅マンションのバルコニーにあった小屋に閉じ込められ、飲食を制限されるなどの虐待を受けながら、数日後に死亡したとされる。

遺体はドラム缶にコンクリート詰めにされ、最終的に岡山県の海中に遺棄された。2012年10月に関係者らの証言に基づき、遺体が発見される。

乗っ取り事件①の橋本家では、

母(三枝子の義母)、

姉(三枝子の義姉)、

三枝子の夫、

弟(三枝子の義弟)の四名が不明、死亡している。

2007年に共に逃亡した皆吉家の次男は、2010年にがんで病死している。

周囲に殺人事件の証拠を握っていて追われていると打ち明けていた。

乗っ取り事件④ 大江家、川村家(2009年4月~2011年11月)

大江家の次女大江裕美(41歳)の夫が川村博之(42歳)。娘が二人いる。

のちに離婚するため、大江家の次女(41歳)は旧姓の大江裕美と表記する。

2009年4月、美代子が「孫の乗ったベビーカーが車両のドアに挟まれた」と鉄道会社にクレームをつけた。

これに対応したのが、当時その会社に勤めていた川村博之さんだった。

謝罪のため、川村博之は上司と一緒に、何度も美代子の自宅マンションに足を運んだ。

美代子は、話し合いの場で脅したり褒めたりし、徐々に川村博之を取り込んでいった。

やがて、川村博之は、家族や将来の夢などプライベートな話を美代子にするようになり、妻(大江裕美)や2人の娘とともに、家族ぐるみで付き合うようになった。

しかし、美代子は川村博之の日頃から抱いていた喫茶店を開きたいという夢を聞き出すと、川村博之にその夢を実現させる為として執拗に退職を迫るようになった。

美代子らに会社にまで乗り込まれるなどされて、2010年4月に川村博之さんは退職するに至ってしまった。

その後も美代子の川村家への過剰な干渉は続き、何かにかこつけては、川村博之や妻(大江裕美)を頻繁に呼び出した。

そして、川村博之が事前の約束を破って競馬をしていたことや、浮気話を妻(大江裕美)から聞いた美代子は、二人に離婚を迫るようになった。

そのことで、川村家夫婦家族や大江家母が住んでいた尼崎市内の二世帯住宅に大江裕美さんの実母や姉、川村博之の親族らも集められ、家族会議が開かれた。美代子が会議を取り仕切り、2010年11月に二人は離婚する。

なおも、美代子の干渉は続いた。

川村博之を美代子の自宅マンションに隣接するワンルームマンションに引っ越させ、さらに、離婚のことで近所に変な噂がたっていると理由づけて、二世帯住宅に住んでいた大江裕美や子供達そして大江裕美母を転居させた。

そして、親族を集めて家族会議を開かせては些細なことで、川村博之や大江裕美さんが吊し上げられ、時には、飲食の制限などの虐待や、親族同士で暴力を振るわせることもあった。

そうしているうちに、2011年初、当時小学6年生と小学4年生だった2人の娘は、美代子に懐き、美代子の自宅マンションで暮らすようになり、両親を敬遠するようになっていた。

2011年6月、東京の親類のところへ身を隠していた大江裕美の実母が連れ戻された。川村博之のワンルームマンションで川村博之、大江裕美、大江裕美姉、大江裕美母、そして川村博之の次女ら5人で共同生活をさせ、子供の養育費の捻出や二世帯住宅の処分などについて話し合いをさせた。川村博之の長女だけは、美代子に優遇され、美代子の自宅マンションで起居した。

睡眠や食事、トイレは美代子の許可が必要になり、それを守らなかったり、家族会議の発言内容次第で、他の親族や美代子らに暴力を振るわれた。

やがて、虐待されている者同士で互いを監視するような状況になったという。

十四人目 大江家 裕美さんの母 死亡(2011年9月11日)

大江裕美さん母に暴力や虐待が集中するようになり、

2011年9月11日に死亡する。

遺体は、川村博之と李でドラム缶にコンクリート詰めにされ、貸倉庫に放置された。

逮捕

大江裕美さん母の死亡後は、大江裕美姉に暴力が集中するようになった。

10月30日未明、車の中で美代子や川村博之から何度も顔を殴られたり、タバコの火を押し付けられるなどの激しい暴力を受け、手足をテープで縛られ、ワンルームマンションに閉じ込められた。

玄関には内鍵がかけられており、その開錠番号は知らなかった。

「このままでは殺される」と確信した大江裕美姉は、寝入っている監視役の川村博之の隙をうかがい、手足のテープを噛み切って、2階の窓から飛び降り逃走した。

そして、大阪市内のホテルに数日間宿泊し、11月3日に大阪市内の交番に駆け込んだ。自身が受けた暴力や、大江裕美母が死亡したことを警察に話し、話に信憑性があると判断した大阪府警は兵庫県警に連絡した。

一方、大江裕美姉の逃走後、事件の発覚を恐れた美代子は、全ての罪をなすりつけるために、川村博之に遺書を書かせ、大江裕美と次女とともに、車で海に飛び込み自殺をさせようとしていた。

11月4日夕刻、川村博之と大江裕美は、自殺を決意し、次女と尼崎市内のスーパーの駐車場に止めた車の中にいた。

並んで止めた車には、自殺を見届けるために美代子と李がいた。そこへ、行方を捜していた兵庫県警が駆けつけ、間一髪のところで3人を保護した。

そして、美代子と川村博之は、大江裕美さん姉への傷害容疑で逮捕された。

美代子 自殺

2012年12月12日午前6時20分頃、

兵庫県警本部の留置所にて、美代子が布団内で長袖Tシャツを首に巻きつけ、自殺を図っているのが発見され、病院に搬送後、死亡が確認された。

美代子は、一連の事件が発覚した2012年10月以降、弁護団や留置係の警察官らに「生きていても意味がない」「死にたい。どうすれば死ねるのか」などと自殺をほのめかす発言を複数回していたという。

逮捕後、主犯とされる美代子容疑者が死亡したことにより、この事件の真相解明は極めて困難な状況になったと言える。

なお、美代子の遺体を引き取る親族はおらず、

2012年12月19日に神戸市によって火葬されている。

この事件の主な逮捕者

角田美代子元被告、

角田正則被告(美代子元被告の戸籍上の従兄弟。李正則)

角田三枝子被告(美代子元被告の義妹)

角田瑠衣被告(美代子元被告の義子、谷本家の次女)

角田健太郎被告(美代子元被告の義子、I家四男の息子)

角田優太郎被告(美代子元被告の義子、三枝子が出産したとされる)

東頼太郎被告(美代子元被告の内縁の夫)ら。

上記逮捕者については罪名、判決について追記する可能性があります。

また、被害者だが加害者にもなっていた人物についても、追記して行こうと思っています。

この事件を題材にした書籍「家族喰い」