アンドレイ・チカチーロ【連続殺人犯】

アンドレイ・チカチーロ【連続殺人犯】
発生国ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国内
ウクライナ・ソビエト社会主義共和国
ウズベク・ソビエト社会主義共和国
最初の殺人1979年12月22日の夜
被害者50人以上の女性や子ども
逮捕日1990年11月20日 逮捕
判決1992年10月 死刑を宣告
1994年2月14日 銃殺刑に処せられた

幼少期

1936年10月16日
ウクライナ共和国スムスカヤ州ヤブロチュノア村に生まれる。
タチアーナという妹が1人。
ステパンという兄が1人。
この兄は飢えた隣人に誘拐されて食べられてしまったと母親が語っているが、実際に起こったことなのかどうかは不明。

ソ連が第二次世界大戦に参戦
アンドレイの父は徴兵された。
アンドレイは母親と寝床をともにしていたが、慢性的な夜尿症であったために症状が出るたびに母から暴行を受け、屈辱的な日々を送った。

そのころのウクライナは、人為的飢饉であるホロドモールにも覆われていた。
ソ連が統治していたウクライナの農村から食料を没収したことを発端に数百万人の死者が出たうえ、カニバリズムが急激に増えたことも報告された。

戦争はアンドレイに心的外傷をもたらし、第二次世界大戦中に遭遇した電撃戦にて、アンドレイは怯えと興奮の両方をもたらした体験に出会っている。

勃起不全

成長のさなかに自身がインポテンツであることに気付いたアンドレイは苦悩する。生まれついての性的不能であった彼は、髭が生えてくるころには、自分は神の意志によって「去勢」されたと信じるようになった。

思春期のころのアンドレイは異性と付き合うことを断念し、読書と自慰に耽った。

1954年、アンドレイの家に、妹の同級生で13歳の少女が訪ねてきた。
アンドレイは彼女の背後から襲い掛かり、強引に性交を試みたが、彼の性器は勃起しなかった。射精こそすれど、まるで変化がないのである。
これを受けてターニャはアンドレイを罵り、彼は激しい後悔と劣等感に打ち震えた。

19歳のとき、チカチーロはタチアーナ・ナリツナドという17歳の少女と恋に落ちた。2人は会うたびに互いを求め合い、性的行為におよぶのも早かった。だが、性交に2度踏み込んだにもかかわらず、チカチーロはやはり性的不能であった。このために2人の間では、性交はタブーと化した。このままだと彼女は自分に見切りをつけるのではないかという焦燥感に駆られたチカチーロは、今度こそはという思いで性交に再び臨んだ。精力剤を飲んだり、木の葉を磨り潰したものを自分の性器に塗り付けるなど、必死であった。だが、そんなチカチーロに対してタチアーナは辟易し、さらには気味悪がるようになった。結局、チカチーロの性器は勃起しないまま射精するに至った。

妄想

電話工時代、チカチーロは、仕事仲間と電信設備の修理に来ていたとき、仲間に隠れて自慰行為を行っていたところを運悪く同僚に見られたことで大きく馬鹿にされるという致命的な失敗を犯した。チカチーロは妄想をするようにもなった。それは、か弱い女が嫌がるも、最後はチカチーロの腕の中で抵抗を弱め、彼の自由にされるというものであった。

結婚

妹のタチアーナは、兄のことを心配していた。ソ連では、18歳から19歳の間に結婚しているのがほとんどであったが、チカチーロは27歳になろうとしていた。タチアーナは、自分が働いている美容院で知り合った友人、フェーニャ・オドナチェヴァを兄に紹介した。チカチーロとフェーニャは結婚するに至った。チカチーロはフェーニャに対し、「結婚するまで、君の体を大事にしておきたい」と語った。性交そのものは正常であったものの、チカチーロにとって、性交はすでに重荷と化しており、娘、息子を儲けたものの、それでもコンプレックスは拭えなかった。 また、このころにはパートタイムで地元紙の記者としてコラムを執筆するなど、ある程度の社会的地位を得る。

教職

チカチーロは結婚の翌年から、電気技師として働くかたわら、大学進学の夢を捨てられず、また社会的地位の向上を目指して再び勉強を始める。30歳でロストフ大学教養学部の通信教育課程へ入学し、ロシア文学を専攻する。5年後に念願の大学卒業を果たした。教職資格を取得したチカチーロは卒業と同時に新しい職場を探し、ノヴォシャフチンスクにて小学校の教師の職を得たのである。しかしこのころ、若い女性とのふれあいが、一生の仕事にならないだろうかという考えも抱いていた。

チカチーロは1971年から1981年まで、小学校や職業訓練学校の教師を務めていた。強度の近視であったにもかかわらず眼鏡をかけることを嫌ったチカチーロは、結局30歳の時に自動車免許を取得するまで眼鏡を購入しなかった。教師として最初に赴任した小学校の教室で授業を行おうとするも、まるで身動きが取れなかった。教壇に立っても、極度のあがり性によって子供たちをまったく指導できず、担当していた上級生のクラスを学級崩壊に陥らせていたため、教師としては不適格であった。共産党員であったチカチーロは校長の厚意もあって副校長待遇として迎え入れられたが、能力不足を露呈したためほどなく解任されている。

また、チカチーロはこの小学校やのちの職場となる職業訓練学校にて、数度のわいせつ事件を起こしている。上級生のクラスの担任を外されてから、チカチーロは低学年のクラスのみを指導するようになるも、その後「チカチーロ先生は体を触る」という噂が立つようになり、実際に自分の女生徒の体に触れてわいせつな行為に及んでいた。通勤途中のバスや電車の中で、少女にわいせつな行為をしていたことを同僚に目撃されて校長に報告がなされていた。のちに校長から追及され、最終的には辞職させられている。その後、職業訓練学校の教師兼舎監として赴任することになった。ここでは、授業中に自分の性器をいじる癖を生徒たちから嘲笑され、「ガチョウ」というあだ名をつけられ、夜尿症、異臭がするという理由で生徒たちに馬鹿にされた。

ここでの仕事以来、チカチーロは少女だけでなく、少年男児にも目を向けるようになる。ある夜、チカチーロは寮で眠っていた15歳の少年のもとに忍び込み、少年の下着を下ろしてフェラチオをしながら自分の性器もいじくり回し、少年に抵抗されると逃走した。このことを翌日に全校に知られたことで生徒たちからさらに愚弄され、同僚も陰でチカチーロを笑った。その後チカチーロは散歩中に生徒から襲われて怪我も負ったことがきっかけで、ジャックナイフを携帯するようになった。このナイフが、のちに引き起こす連続殺人で使用されることになる。

最初の殺人

1978年
チカチーロはロストフ・ナ・ドヌー近くの町で炭鉱業専門学校に転勤となる。1978年 12月22日
チカチーロは9歳の少女レーナ・ザコトノワを連れ出して強姦しようとしたが、勃起はしなかった。抵抗されたためにチカチーロは少女の首を掴んで自分の全体重をかけ、レーナの体が動かなくなってからチカチーロは行為に及ぶが、彼女が言葉を発して息を吹き返したことに驚愕し、彼女の性器をめった刺しにして殺害、刺している途中で射精する。このとき、レーナがしていたスカーフをかぶせて彼女の両目を隠している。死体は袋に詰めて凍った川に遺棄した。記録されているものでは、これがチカチーロの初めての殺人と見られている。チカチーロは、息絶えた犠牲者の体を突き刺したり切り裂くことによって、性的興奮とオーガズムを得ることができた。
チカチーロはレーナを殺してから3年近くの間は殺人も強姦もしなかった。

冤罪被害
この事件では、アレクサンドル・クラフチェンコという無実の男性(強姦殺人の前科持ち)が疑われた。彼にはアリバイがあり、妻とその友人も知っていたにもかかわらず、民警が圧力をかけると彼らは態度を変えてしまい、これによって逮捕されたクラフチェンコは民警の激しい尋問の末にレーナを殺したと自供し、1983年に銃殺刑に処せられた。

犯行の再開


1982年
ふたたび犯行を始めた。
その間、国営工場の中級幹部職員に転職している。
仕事柄、長期出張が多く、また自分の裁量で単独で仕事をすることが許されていた。これを機にチカチーロの犯行はエスカレートし、男女を問わず襲うようになる。被害者には激しい暴行を加え、両目を抉り、遺体を切断し、その一部を食べたり持ち去るようになる。女性と無理矢理関係を結ぼうとするが、激しい抵抗に遭って失敗。しかし、相手の抵抗に興奮して射精するという経験をする。これがきっかけで、性交よりも相手が抵抗することに性的興奮を感じるようになる。チカチーロが被害者の両目を抉ったのは、「殺された者は、自分を殺した者をその瞳に焼き付ける」という、ロシアの古い諺が気になっていたという理由もあった。
1982年12月11日
10歳の少女を殺害。
1983年1月の時点
4人を殺害。
成人女性は、酒か金を与える約束をすることで誘いに乗った売春婦かホームレスで、チカチーロは彼女らとの性交を試みたが、やはり勃起せず、彼女らはチカチーロの勃起不全を嘲笑し、彼に殺意と怒りを覚えさせた。
また、チカチーロは主にバス停や鉄道駅にいる家出した子供や若い浮浪者に声をかけて、彼らを(ほとんどは)森の近くに誘い込んで殺した。子供の犠牲者については男も女も関係なく、チカチーロは彼らに玩具や菓子を与えると約束することで誘惑できた。
1983年の6月まで
殺人を控えていた。
1983年の9月まで
5人を殺害。
1984年
妻フェーニャとの性交を絶つ。
15の殺人が起こった。警察は巡回を増やし、多くの公的な交通手段を閉鎖して、平素な服を着た男性について情報を公示した。
1984年1月から2月にかけて
2人の女性を殺害。
1984年8月下旬
バス停で少年や少女に話しかけているチカチーロの様子が、私服刑事の目に止まった。不審な振る舞いをしていると判断されたチカチーロは、9月13日深夜に署への同行を求められた。このときチカチーロの鞄から料理包丁やロープが出てきたため、チカチーロは緊急逮捕された。
しかし、ソ連の法律では24時間以上拘束できなかったため、無実の窃盗事件の容疑者として再逮捕された。そのためチカチーロの拘束時間は延長された。
取調べによって彼の殺人を証明するには証拠が不十分とされた。
ほかにもバッテリーの窃盗事件に関与していることが判明したチカチーロは、1984年12月
裁判で懲役1年の実刑判決を受けるが、裁判終了後数日で釈放された。

釈放後

新しい仕事を手に入れたチカチーロは、目立たないように活動した。
1985年8月1日まで殺人を控える。
1985年 8月
18歳の女性を殺害。
1985年 8月27日
モスクワで女性を殺害。
1985年の2件の事件をきっかけに、KGBの国内部門が捜査に乗り出す。
1985年の中頃
体制を一新して捜査が再開された。
1986年から1987年の約2年間
一切犯行を行っていない。
チカチーロはこの間に殺人犯の捜索にボランティアで協力している。
1987年 5月16日
12歳の少年を殺害。
1987年 7月
12歳の少年を殺害。
1987年 9月15日
16歳の専門学校生を殺害。
1988年 4月
殺人を再開。身元不明の女性を殺害した。
1988年 5月
9歳の少年を殺害。
1988年 7月14日
15歳の少年を殺害。
1989年 2月28日
16歳の少女を殺害。解体。
場所は娘が出て行ったあとの空き部屋で、のちに息子が住むであろうと借りていた部屋だった。
1989年の5月から8月にかけて
4人を殺害。
1990年 1月14日
11歳の少年を殺害。
1990年 3月7日
10歳の少年を殺害。
1990年 4月4日
31歳の女性を殺害。
1990年11月6日
22歳の女性を殺害。
実質的に、これが最後の犠牲者である。

逮捕

殺害後、顔に返り血を付着させたまま現場付近を歩いていたチカチーロが、警察官の目にとまる。民警が彼の勤務記録を調べた結果、犯行日時と出張記録が完全に一致し、民警およびKGBの監視下に置かれる。事件のあとでさえ、警察はチカチーロを逮捕・起訴するだけの十分な証拠がなかった。しかし、警察の監視下にあった。

1990年 11月20日
それ以上チカチーロを泳がせておくのは危険だと判断した民警とKGBは、
職場から帰宅するところを逮捕した。

長い話のあと、チカチーロは50以上の殺人を自白した。


裁判

勾留

チカチーロが刑務所に勾留されているあいだは、特別な警戒が取られた。
ロシアの刑務所では、子供への強姦や殺人で収監された囚人は、監禁室の囚人たちから虐待され、ときおり殺される。

チカチーロが独房にいるあいだは、ビデオによる監視が行われた。容疑者は取調官の前でしばしば奇矯な振る舞いをするが、チカチーロの態度は独房の中では正常であった。チカチーロはよく食べ、よく眠り、毎朝運動し、広く本や新聞を読んだ。ほとんどの時間を使って手紙を書いたり、政府高官、マスメディア、家族に対して不満を言った。

勾留中、妻のフェーニャと一度だけ面会している。チカチーロ逮捕後、世間の糾弾にさらされた家族はKGBの特別な計らいにより名前を変え、新しい身分で別の土地で人生をやり直さざるを得なくなっていた。このときの面会は互いに望んで行われたものではなく、チカチーロの銀行口座を解約する際に必要な委任状のサインをもらうためであった。短い面会の中で、チカチーロはフェーニャに「お前に言われた通り、俺は病院で(性的不能の)治療を受けるべきだったよ」と後悔の念を述べ、家族に苦しい思いをさせたことについて謝罪している。

判決・処刑

1992年 10月14日
チカチーロは52件の殺人罪で有罪判決を受け、死刑を宣告された。
判決を受けたチカチーロは、判事に「イカサマだ! お前の嘘なんか聞かねえぞ!」と罵倒したという。
1994年 2月14日
銃殺刑で処刑された。57歳没。
死後脳は日本人に買い取られたという。