加江田塾子どもミイラ事件
- 2024.10.15
- 日本の事件
事件概要
| 事件発覚日 | 2000年1月20日 |
| 発生場所 | 宮崎市加江田 |
| 内容 | 1995年7月に宮崎県宮崎市で設立された 新宗教の加江田塾の拠点内を、宮崎南警察署が 家宅捜索したところ、ミイラ化した2遺体が発見された。 |
| 被害者 | 男児(6歳) 男児(未熟児体重約1500g) |
| 逮捕者 | 塾代表の東(ひがし)純一郎…自らを創造主「タオ」の代理人と言っていた。 塾幹部の女 |
| 判決 | 懲役7年 |
| 備考 | 東は1986年から1989年まで統一教会員だった。 加江田塾のシンボルカラーは黄色。衣装や建物すべて黄色であった。 |
事件発覚の経緯
塾の動向を怪しんだ近所の人や、元塾生からの通報とされている。
通報があった宮崎南警察署が家宅捜索を行なったところ、ミイラ化した2遺体が発見された。
加江田塾の設立について
東純一郎
1944年(昭和19年)
鹿児島市で出生。
大学の理工学部に進学後、女性と婚姻した。
1986年11月
統一教会会員になる。その後脱退。
やがて自ら「TAO」と名付けた創造主の存在を意識し、その創造主との対話を通して様々な事象を理解・判断するという考え方を確立。
1994年(平成6年頃)
「氣づきの会」という団体の会長として、全国各地でセミナーを開催し、健康器具を販売する仕事に従事した。
自らが「TAO」の代理人であるとしてセミナーの参加者から相談を受け、助言や指導を行うようになった。
塾生の女 中川(仮名)
後に未熟児を出産し、その子がミイラ化する。
1992年(平成4年)頃
統一教会の合同結婚式で後に子供を授かる男性と出会い、交際を始める。
1994年(平成6年)10月頃
香川県で開かれた「氣づきの会」のセミナーに出席して東純一郎と出会う。
その後、中川は、東純一郎に「交際相手が、交通事故で死んだ知人の葬式に出席した後から体調が悪くなった」など相談。
言われた通りにすると体調がよくなった事から心酔していく。
塾幹部の女 山下(仮名)
後に東純一郎と共に逮捕される。
1950年(昭和25年)
北海道で出生。
子供の病気や交通事故がきっかけで宗教団体に入会する。
平成6年10月頃
知人の中川から誘われ、大阪で開かれた「氣づきの会」のセミナーに参加。
東純一郎と知り合った。
その後、東純一郎に自分の子供のことや、人間関係についての悩みを打ち明けるうち親密な仲になる。
1995年(平成7年)5月頃以降
山下は「氣づきの会」のスタッフとして東純一郎と行動を共にするようになる。
1995年(平成7年)7月頃
東純一郎や山下を慕う者らは宮崎に転居。共同生活を始めた。
この集まりを、その地名をとって「加江田塾」と名付けた。
1995年(平成7年)8月4日
山下は夫と正式に協議離婚した。
加江田塾アネックス
その後も塾生は増え、手狭になったため、塾生らの生活の本拠として本館とは別に3階建ての建物を借りる。
本館
本館には、東純一郎のほかに東と肉体関係のあった塾生A。
塾生Aと東との間の幼女。
東の娘など、比較的東と近い関係にある者で生活した。
加江田塾の教え
1996年(平成8年)10月頃
東純一郎の教えを支持する者らで「輝21世紀をつくる会」が結成。
1997年(平成9年)8月頃
「東純一郎後援会」が結成。
これらの主催によって、個人を対象とした「愛のセミナー」や企業人を対象とした「ビジネス帝王学セミナー」が全国各地で開催された。
これらのセミナーで東純一郎は
・病気は「悪」が人に取り憑くことにより起こるもの。
・病気を良くするには取り憑いた「悪」を消し愛のエネルギーを与えてその人を清める必要がある。
・病院は「悪」が溜まっているので行かない方がいい場所。
・薬は完全に患者を治すことができず副作用もあるので飲まない方がいい。
などと訴えている。
祈祷類似行為
参加者と個人面談をし体や心の悩みを聞き出して、東純一郎が「フーチ」を持ち、山下が「チャネリング」を担当し、そして「お清め」や「波動療法」を行った。
これは「TAO」の愛のエネルギー(波動)を相手に送ることで、その者に取り憑いている「悪」を取り除くために行うものとされた。

具体的な方法
・希望や目標を紙に書き「ラッキーハンマー」と称する木槌でその紙を叩く
・手の平を患部にかざして気を送る
・「エイッ」と大声を出して気合いを入れる
・木製の剣を患部に当てたり空気を切ったりする
・塾生らが大勢で「ワッショイ、ワッショイ」と大声で叫びエネルギー「言霊」を送る
など様々であった。
被害男児が預けられる経緯
1991年(平成3年)4月30日
次男として誕生。
その後両親は離婚、母親である宮原さん(仮名)が2人の子供の親権者となって横浜で生活していた。
2歳になる直前の平成5年4月19日頃
ステロイド依存性のネフローゼ症候群に罹患していることが判明。
平成8年11月21日から12月17日までの間、入院して治療を受けている。
この病気は専門医の指導を受けて継続的な治療を続けることで一定の年齢に達すると完治する可能性が高いとされている。
東純一郎との接点
宮原さんの元夫の市川さん(仮名)が、かつて勤めめていた同僚から「すごい人が九州にいる。愛の力で困っている人を助けたり、病気の人を治したりする。やっと自分の生きる場所が見つかった。」と東純一郎を褒め称えているのを聞く。さらには「今後は加江田塾の塾生として生活していく」という話を聞き興味を持った。
東純一郎の力を信じるきっかけ
ある時、市川さんの上司が急性動脈瘤解離で倒れ危篤状態になった際、元同僚の話を思い出して「何とか東純一郎の力で助けて欲しい」とお願いした。
すると、元同僚から宮崎に来るように言われたため、宮崎へ赴き初めて東純一郎と面会した。
その時東純一郎は「自分が宮崎から気を送って清める。絶対に治る。死んだらどうしようとか助からないとかマイナス思考にならないように家族などに伝えてほしい」などと述べた。
市川さんは東京に戻り関係者にその旨を伝えた。
その後上司は奇跡的に回復。退院した。
このような経緯があったことで市川さんは東純一郎の神秘的な力のおかげであると考えるようになった。
1997年(平成9年)5月下旬頃
「輝21世紀をつくる会」に入会し、
その後「東純一郎後援会」の会長になった。
そして東純一郎に「別れた妻との間に子供が2人おり、そのうちの1人がネフローゼ症候群という体がむくんで尿が出なくなる病気にかかっていて病院で診察を受け、薬も飲んでいるが副作用で顔が腫れたりする」ということを話した。
その話を聞いた幹部の山下は「TAO」の言葉として「その病気は大したことがない。元妻の子どもに対する愛がなく、元妻の実家の因縁が強く影響しているのが原因。市川さんが子供らを引き取って育てるべき」などと述べた。
東純一郎は「TAOの意思は絶対だから従った方がいい。TAOを信じれば病気は治る」などと付け加えた。
母親から息子を引き取るためにしたこと
市川さんはその時点では自分が直ぐに息子を引き取るというのは無理だと思ったが、山下や東からの強い勧めで息子の体を健康に戻したいと思うようになり、元妻に「薬を飲ませるのは良くない」「その先生の力を借りれば息子が絶対に治る」などと言い続け、何度も電話をしている。
さらに元妻の勤務先を訪ね「お前に任せておけない。子供は引き取る」などと言い宮原さんはやむなく市川さんが息子を東純一郎に引き会わせることを認めた。
その後、市川さんは長男と病気の次男を引き連れて宮崎に赴き祈祷を受けた。
東純一郎は市川さんに「病気は大したことはないが母親から切り離す必要がある。できれば宮崎に連れてきなさい。薬は必要ないし、食事制限も必要ない。病院には行かせない方がいい」などと伝えた。
母親の心配と決意
その後宮原さんは息子の病状に改善がみられないので不安を訴える内容のファ
ックスを東純一郎らの連絡先に送っている。
その都度「今清めたから大丈夫だ。不安や心配といったマイナスの感情は「悪」であり、息子の「悪」を増長させてしまうので心配してはいけない」などと記載されたファックスの返送を受けた。
そして東純一郎は宮原さんにも「冬休みを利用して宮崎にこないか」と何度も勧めている。
宮原さんが、知らない人と一緒に生活することに不安を訴えると、
「子供もいて塾生の人たちがいろいろと面倒をみてくれる。みんないい人達
で俗世間から離れてのんびりできる。お金が目的の団体ではない」などと説得。
宮原さんもついに息子を連れて加江田塾へ行き東純一郎らに息子の治療を任せることを決意した。
1997年(平成9年)12月21日
宮原さんは次男と宮崎を訪れる。
その後冬休みになり長男も宮崎にやってきた。
1997年(平成9年)12月24日
宮原さんは「輝21世紀をつくる会」に登録されている。
病状の悪化
その後病状は良くならず年末頃には自分で布団から起き上がることも困難になり、食欲もなく、1日中ぐったりした様子になるなどその容態は悪化する一方であった。
その間も無意味な祈祷が繰り返され、心配する宮原さんに「そういう気持ちが良くない」などと言っている。また、チャネリングの内容として
「ここに来ることを許され,先生がおいでと言われたということは,命にかえて守りぬくという
ことです。先生と,ここの塾生たちは,いったん命をささげた者たちです。いつで
も息子くんを守るために命をさしあげようと思っていますが,あげたいと思っても受
けとる相手がいなければあげることができません。完全に情を開き,ゆだねてみて
ください。悪いように見えてもいづれは出てきたものです。彼が一生かかってこく
ふくしていかなければならなかったものを何週間かで治していく訳です。・・・命
にかえて守りたいと思う人が多ければ多いほど早く良くなります。ゆだねてみてく
ださい。」(平成9年12月28日付け)
ど早く良くなります。ゆだねてみてください。」(平成9年12月28日付け),「やっと病気の原因が解明され,これから早いスピードで病気が治っていきます。もう二度と薬を飲んだり,病院に行っ
たりする必要はありません。・・・1週間くらい,正常な状態になるまでかかります。いっきいちゆうせず,正常な状態だと思って接してください。本人が体で感じているはずです。
ずいぶん楽になったと思っているはずです。」(同月31日付け)などと伝えられている。
宮原さんには交際している男性がおり、その男性が一度宮崎に様子を見に来ている。
その男性が、病状の悪化をみて心配し問いただすが、宮原さんから「今よくなっているところだ」と言われ、疑問に思いながらも帰京している。
男児の死亡とその後の対応
1998年(平成10年)1月13日朝
東純一郎と幹部の山下はセミナーの為不在のため、男児の世話を看護師の資格を持つ塾生に任せていた。
塾生が男児がゼーゼーと苦しそうに呼吸しているのを見て山下の携帯電話にかけたが繋がらなかった。
正午頃
看護士の塾生は男児の様子を見に行き、異変を認め、取り乱して階段を駆け下りる。
その場にいた塾生らに男児が息をしていないと告げた。
男児はネフローゼ症候群に起因する肺水腫に基づく呼吸不全により死亡していた。
母親である宮原さんは他の塾生によって、別館に移動させられる。
午後零時過ぎごろ
塾生が幹部の山下に電話を掛ける。
男児の容態が急変し冷たくなって呼吸が止まったことが伝えられた。
そして本館に誰かが呼んだ救急車が到着したことも伝えられた。
山下は東純一郎の意向を確かめて救急車を返すよう指示。
これを受けて塾生が救急車を帰した。
東純一郎は塾生に
「こちら(静岡)から「お清め」をするか
らそちら(宮崎)では男児に人工呼吸と心臓マッサージを行うように」と指示。
塾生らはこれに従い東らと連絡を取り合いながら人工呼吸と心臓マッサージを行った。
また山下は、仕事や学校から帰ってくる塾生らを本館には入れず、そのままアネックスの方に行かせるよう指示した。
東純一郎は繋がった状態の携帯電話に向かって
「ワッショイ、ワッショイ」と大声を出し木製ナイフを手にエイッ、エイッと気合いを入
れて空を切ったりするなどの祈祷類似行為が行った。
その後予定のセミナーを全て中止し男児が亡くなった翌日の
1998年(平成10年)1月14日午後8時頃
東純一郎と山下は宮崎に戻った。
そして
「男児生きており、今、『悪』と闘っているところである」などと説明し理解を求めた。
生まれ変わる
東純一郎は死体が腐食し続けているにも関わらず、無意味な祈祷を行ったり、装置を置いたりして
新しいからだを作ってあげるなどと言っていた。
また、母親ではる宮原さんにはチャネリングの結果として
「ぼく(息子)自身は苦しくとも痛みも何も感じずただお父様
(TAO)がもういいよといってくれる迄ぼくの昔の体に全部準備される迄かくれ
んぼしています 全部あたらしい体が出来あがったらお父さまがもういいよといっ
てくれる そうしたら目をさますから楽しみに待っていてください・・・もう少し
したらみんなに元気になって会えると思います」(1月17日付けの息子からのメッ
セージ)
「(物事を)マイナスにとらえれば困難な事がもっと困難になる・・・
TAOが自分に対し悪い事をするわけがないと信念をもつ必要があります」(1月
21日付けの「TAO」からのメッセージ)
「息子君が今日夜半から具体的に3次元にもどる PM7:00位から準備が始まり少しずつ過去の肉体をぬいでまいります 過去とは別人格,別な体型をもっています ・・・
具体的に,肉体が完全に取り戻すことの出来た状態でいわゆる外的な菌や空気になじみ
彼自身が快適な条件になれた時に意識は完全に取り戻すことが出来ます・・・
何の心配もありません 全てゆだねて心の準備だけととのえておいて下さい」
(1月25日付けの「TAO」からのメッセージ)
「毎時(朝起きてからよるの12時まで)息子君のために
父親として祈ってあげて下さい・・・2/1~2/3の3日間」(2月1日付けの
「TAO」からのメッセージ)
などと伝えている。
息子の返還をもとめて
宮原さんは時間が経つにつれ、やはり息子は死んでしまったのではないか。
との思いを強める。
1999年(平成11年)7月30日頃
東純一郎らに、問いただしたところ、
「常識的に見れば死んでいるかもしれない」と、死んでいることをようやく認めた。
しかし「魂は生きている。奇跡が起こるから信じてほしい」など
と言って引き続きその復活を待つよう理解を求めてきた。
1998年(平成10年)11月1日頃
息子の死体を返して貰おうと決意して
「・・・もう疲れました。理解はできない。だから信じよう。この繰り返しです。しかし、息子のことに関してはもう時間が経ち過ぎました。もう終わりにしてください。」などと死体の引渡しを求める内容の文書を作成し東純一郎らに送った。
これに対し
「終わりにしたければ終わりにすればいいです。・・・お願いされたから預
かり、加江田塾で起こった出来事だから責任を持って今もなお闘っていま
す。『何があっても,彼が帰ってくる』これが今、私を生かしている・闘わせて
いる全ての原動力です。TAOが帰ってくると言われたことに対して,100%
信じ委ねているだけです。信じる信じないは自由です。しかし『お任せしま
す』と一旦委ねられた。その全てを私の生涯をかけて闘っているわけです。あなた
がどうしようと勝手です。しかしゴールが目の前に見えて長い道程を引き戻る
気はさらさらありません。」
などとその引渡しを拒む内容の文書を送った。
未熟児のミイラ事件
平成11年2月12日
塾生の女 中川(仮名)が突然激しい陣痛が起こり本館1階のダイニングルームで本件男児を出産した。男児は奇形症候群の一種であるコルネリア・ド・ランゲ症候群の症状があった。
この子もミイラ化して発見される。
その後の公判で、中川は東代表や塾幹部の女性の無罪を切望していた。
判決
2002年3月26日
懲役7年(求刑懲役8年)の判決が言い渡された。
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