附属池田小事件

附属池田小事件

附属池田小事件(ふぞくいけだしょうじけん)とは

2001年(平成13年)6月8日(金)

宅間 守(たくま まもる)が大阪府池田市の大阪教育大学附属池田小学校で小学生を無差別殺傷した事件(殺人・殺人未遂・建造物侵入・銃刀法違反事件)。

概要

宅間の生い立ち

宅間は1963年11月23日に兵庫県伊丹市の工場街の工員家庭の家に生まれた

幼少時代の宅間はたびたび問題行動を起こし、3歳時に三輪車で国道の中央を走って渋滞させたり、小学校では自分より強い児童にはいじめられていたが、自分より弱い児童に対しては徹底的にいじめるなどした。

すなわち、いじめられっ子であると同時にいじめっ子でもあった。

乱暴者で、小学校時代のあだ名は『ゴン太』であり、猫などの動物を新聞紙に包んで火をつけて殺害したこともあった。

中学入学後も弱いものいじめは継続して行っており、本人が事件後鑑定医に語ったところによれば、「好意を抱いていた女子生徒の弁当に精液をかけた」こともあるという。

小学生の頃から自衛隊に強い関心を持っており、「将来は自衛隊入るぞ~」と大声で叫んだり、一人で軍歌を大声で歌っていたこともあり、高校生になっても周囲の同級生に「俺は自衛隊入るからお前らとはあと少しの付き合いや」と発言していたこともあったという。

また、高校時代に停学処分を受けた際、反省文にも「自衛隊は内申書一切関係無しの一発勝負」などと綴っていたこともあった。

宅間は幼いころから「高学歴・高収入のエリート」に対する屈折した羨望、嫉妬を抱いていた。

尼崎市内の工業高校を1981年3月に2年で中退したあと、定時制高校に編入学するもすぐ退学。数ヶ月間ガソリンスタンドでのアルバイトを経て、1981年末、18歳のとき航空自衛隊に入隊したが1983年1月に1年強で除隊させられている

除隊の理由について、鑑定書は「家出した少女を下宿させ、性交渉した」ために懲罰を受けたと記述している。

除隊後、宅間は運送会社やトラック運転手、引越し業者など十数社転職を繰り返していたが、いずれも数週間から半年以内で辞職している。

精神的に荒れ、家族に暴力をふるったり、傷害、暴行などに走り、また高速道路を逆走するなど非行を行うようになっていった

1984年、マンション管理会社に勤務していたときには家賃の集金と称して女性の部屋に上がり込み、強姦事件を起こしている。

事件後、宅間は母親をともない精神科を受診し入院するが、入院中に5階から飛び降りて重傷を負う。

この出来事のあと、統合失調症の診断を下されている。

また、のちに母親に宛てた手紙によれば、入院したのは警察から強姦事件で追及されるのを回避するためで、5階から飛び降りたのは「親に嫌がらせをするため」であったという。

初犯の強姦事件では1985年に懲役3年の実刑判決が確定し、翌1986年春から1989年春まで奈良少年刑務所に服役し、1989年の出所後父親が宅間の私物を下取りに出しその金を本人に手渡しして父親から勘当されている。

1993年、30歳のとき非常勤の地方公務員になり、伊丹市営バスの運転手やゴミ収集(1997年)、伊丹市立池尻小学校の用務員(1998年より)などを務めていたが

この間も市バスの運転を務めている最中に乗客の女性に「香水の匂いがきつい」ことを理由に言いがかりをつけてトラブルを起こし懲戒処分を受けている。

1999年4月に小学校教諭等が飲む茶に精神安定剤を混入させる行為をしたとして傷害容疑で逮捕され、後に分限免職されたものの、刑事処分は「責任能力なし」として受けなかった。

なお、精神安定剤混入事件について宅間は「先生達に無視され家族とも上手くいかず、人間関係による鬱憤を晴らしたかった」と語っている

その後ふたたび職を転々とするが、そのたびに暴行事件などを起こしたため長続きしておらず、2000年末ごろから最終的に池田小の通り魔殺人事件で逮捕された当時までは無職であった。

十数社の職歴のうち、ある程度長続きした(1年以上)のは航空自衛隊と非常勤の地方公務員の2ヶ所のみであり、それ以外はいずれもおよそ半年以内で辞職したり解雇されたりしている。

また、初犯の強姦事件を除き、すべて精神障害を理由に15犯にわたる前科や不起訴処分を経験している。

また、4回の離婚や自殺未遂も経験している

宅間の家系・家族とその環境

宅間の先祖は旧薩摩藩の下級武士で

宅間の家系では事件発生前まで代々誇りにしていた。宅間家の男子にも代々受け継がれ、法律や警察関係の仕事を行う者が多かった。

武士だった宅間の曽祖父は、明治維新の直後に丁髷を落として警察官に就任し、鹿児島県から奄美大島に渡ったあと、大阪・河内へ移住した

宅間の祖父は、宅間の父親が17歳になった年の春に死去している。

宅間の父親は小学校で学歴を終え、宅間家一家の大黒柱として6人の家族を養ってきた

宅間の父親は、宅間の祖父と幼いころから自宅の庭で木刀を打ち合っていたといい

「自分は薩摩武士だ」との強烈なプライドを生涯持ち続けていた。

父親によれば「『誰にも迷惑をかけない』というのは、大きな私のテーマでありました」と語っている。また、「(宅間家の男子は)何代にも渡って厳しい修身教育(道徳)を受けてきたため、(宅間家の男子は)『真のサムライたれ』と教育された。ワシも父親に厳しくそれを仕込まれたし、どんな出身地や身分にも関係なく『教育勅語』というものがあった。これがあったから日本人はちゃんとしとったんですよ」という。父親は極めて平凡な頑固親父で、自分の人生にプライドを持っていたという

宅間の父親は、家族全員に対して激しい暴力をふるっており、宅間自身も父親から厳しく接せられていた(なお、父親自身も放任されて育っていた様子である)。

宅間は暴力をふるう父親を憎悪し、寝ている間に包丁で刺殺してやろうと思ったこともあると述懐している

宅間が自衛隊を退職して非行に走るようになると親子関係はさらに悪化し、取っ組み合いをして父親が宅間を何度も石で殴打する出来事もあった。事件後、父親は宅間のことを「物事が上手くいかないとすべて人のせいにする人間」と評している

宅間の母親は、家事、育児が苦手であり、家事のほとんどは父親が担当し、一種のネグレクト状態であったと指摘される

宅間を身ごもった時、父親に「これはあかん」「おろしたい」と語っていた。

また、母乳をあげることも嫌がっていた。

さらに、宅間が中学を受験する際には、「お前なんか産まれてこなければよかった」と罵詈雑言を浴びせられたと、事件後に宅間のマンションから押収されたノートに書かれていた

宅間は両親に対して、けんかをした際に「ヤクザを使ってお前らの生活滅茶苦茶にしてやる」「死ぬまで苦しめてやる」と語っていた

宅間には実兄が一人いたが、破綻した実弟の存在に心を病み、起業の失敗と偽って小刀で首を斬って40代前半のときに自殺している

宅間の母親も長期に渡って心を病み、精神病院に数十年以上入院生活し、2016年末に死去している

父親は事件後酒乱となり入院しているが、獄中の宅間によると「宮崎勤の父のように自殺して欲しかった」と語っている。

事件の概略

2001年6月8日午前9時40分頃(事件の40分前)、宅間とみられる男が、白い乗用車を運転し猛スピードで無断駐車をしている駐車場から出ていった様子が目撃された。目撃した人物は「何かやるぞと感じた」という

10時20分ごろ、大阪教育大学附属池田小学校に凶器を持った宅間が侵入し、次々と同校の児童を襲撃した。

結果、児童8名(1年生1名、2年生7名)が殺害され、児童13名・教諭2名が傷害を負った

宅間は、校長や別の教諭にその場で取り押さえられ、現行犯逮捕された。

宅間は最後の一人を刺し終えた瞬間、凶器である出刃包丁を自ら落として、「あーしんど!」と呟いたという。

さらに宅間は後の取り調べで事件を起こした理由について「エリートでインテリの子をたくさん殺せば、確実に死刑になると思った」などと供述していた。

その後、宅間は殺人罪などで起訴された。

逮捕当初、宅間は精神障害者を装った言動を取っていた

しかし、被疑者に対して起訴前と公判中に2度行われた精神鑑定の結果で、

2度とも「情性欠陥者で妄想性などのパーソナリティ障害は認められるが、統合失調症ではなく、責任能力を減免するような精神障害はない」となり、事件の責任能力を認める結果が出た

また、同時に宅間の犯行時の制御能力について「2、3歳程度の水準にまで」退行していた可能性があるという判断がされた

宅間は逮捕直後に「薬を十回分飲んだ。しんどい」と供述して医師の診察を受けたが、宅間が飲んだとされる薬は通院先の病院などを調べた結果、抗精神病薬「セロクエル」と抗うつ薬「パキシル」、睡眠剤「エバミール」の三種類と判明した

仮にこれら全部を宅間の供述通り10回分服用しても眠くなるだけで、奇怪な行動を起こしたりすることはない。

また宅間の自宅を捜索すると、睡眠薬や抗精神病薬など10数種類、約200錠の薬物が押収されたが、これは宅間が複数の病院に通院しては、医師に「眠れない」などと睡眠障害・不眠症を偽って(いわゆる詐病の一種)薬を処方してもらい、服用せずにため込んでいたものだった。

さらに、逮捕後に宅間の血液や尿を採取して仮鑑定した結果、精神安定剤の成分が検出されなかった。

捜査員がこの事実を宅間へ突きつけると、「すみません。薬は飲んでいません。作り話でした」と偽証していたことを認めた

公判

下関事件の模倣犯になりたかった」

「命をもって償います」

と初公判でのみ反省・謝罪の弁を口にしていた。このことに対し、大阪地方検察庁の検事が週刊新潮のインタビューに対して「この反省と謝罪の弁は本物だった」との証言をしている。

公判後は「何も言えないよりはよかった。本当ならば4人の遺族を名指しで批判するつもりだった」「刑事責任能力がそこまで認められたなら(控訴しても)仕方ない」と述べている。

2003年8月28日、大阪地方裁判所は被告人の宅間守に対して死刑判決を言い渡した。

死刑判決を言い渡す場合には主文を最後に述べる慣例があるが、今回はそれを破って主文を先に言い渡した。

また、すでに宅間は開廷時に

「ちょっと、言わせてくれ。死刑になるんやろ。これまでおとなしくしてたやろ!」

と騒いだことで退廷命令を受け、拘置所職員によって連れ出されており

死刑判決を読み上げる裁判長の声を自ら聞くことはなかった。

また、この判決公判では傍聴希望者が多かったことから、特別措置として法廷にテレビカメラを設置し、別室に設けたテレビモニターで傍聴することができた。

そのほか、宅間は公判中にあくびや貧乏揺すり、遺族や裁判長らを睨みつけたりする行為を行い、これに対し傍聴席からは

「早く死ね」「一人で死ね」

などの怒号が飛び交っていた。

死刑確定後

控訴期限の同年9月10日に弁護人が控訴したが、9月26日に宅間が控訴を自ら取り下げ、死刑判決を確定させた

宅間は主任弁護人に送った文書で、

刑事訴訟法第475条第2項で規定された

「死刑確定後の6か月以内の死刑執行」を訴えていた。

死刑が6ヶ月以内に執行されないと精神的苦痛を理由とする国家賠償請求訴訟、および法務大臣・野沢太三に対する特別公務員暴行陵虐致傷罪での刑事告訴を起こす準備を宅間はしていた。

告訴した場合には、たとえ受理されなかったとしても手続が滞って死刑執行が遅れる場合があったが、告訴の依頼を受けた弁護士によれば、実際に告訴の手続きを行うつもりはなかったという。

また担当弁護士に届いた2004年の年賀状には

「ケジメをつけるためにご協力お願いします」

としたためており、宅間は一刻も早い処刑を望んでいた。

この事件の判決確定後、宅間は死刑廃止運動家の女性と出会い、文通を経て獄中結婚をした。

晩年は宅間自身の姓を女性の姓に改名している。このほか、愛知県出身の既婚女性から告白を受けており、その女性とも文通を行っていた

最初は愛情や支援に対して頑なに心を閉ざしていた宅間だったが、自分に対する理解者が現れるに連れて、少しずつ彼女に対して心を開いていった。

死刑確定の約1年後

2004年9月14日(火)午前8時16分

大阪拘置所にて宅間に死刑を執行。

宅間の望んだ通りの比較的早い執行となった。

執行当日の朝食は摂取することが許されなかったが、宅間は執行直前に刑務官から受け取った煙草とリンゴジュースをゆっくり味わってから死刑台に消えていったという。

40歳没。

宅間が最期に残し、妻が死刑執行後に刑務官から伝えられた言葉は

「『ありがとう、と僕が言っていた』と、妻に伝えてください」とされている。

妻に対しては感謝の気持ちを表すまでには至ったものの、事件によって犠牲になった被害者の児童やその遺族への謝罪は最期まで一切なかったと言われる。

なお、葬儀はマスコミが押しかけることと、費用面など経済的事情もあり難航し、信者ではなかった大阪市内のキリスト教関係の施設で行われたという

事件後の反響

犠牲者に対する対応

この事件で死亡した2年生7名は、2006年に同級生と共に特別に卒業証書を授与され、「小学校を卒業」という形になった

さらに、2007年にはこれと同様に、死亡した1年生1名に卒業証書が授与された。

また小学校を管理する文部科学省は、被害者遺族らに総額4億円の慰謝料や賠償金を支給した。

学校側の対応不足

文部省(当時)は、1999年に京都市立日野小学校で発生した京都小学生殺害事件のあとに「安全管理に関する通知」を出しているが、附属学校を設置管理する文部省および大阪教育大学では、各附属学校の安全措置の状況を把握していなかった。

通知に関しては、教官に対して一度口頭で伝えたに留まり、それ以外の格別の対応をとっておらず、事件当日も不審者に対して教官による十分な対応がされていなかったことが、被害児童の救助の遅れや犯人逮捕の遅れにつながった。

犯人を取り押さえてから警察による犯人逮捕までの間、学校側による状況把握ができず、管理職や教務主任は混乱の中で事件の全容をつかめなかったほか、組織的な対処行動(児童に対する組織的な避難誘導、救命活動、搬送処置など)ができなかったため、死亡した8名の児童は20分前後も放置されてしまった

混乱の中、教員が救急車に乗らず児童に付き添わなかったため、保護者への児童の搬送先病院の連絡も遅れていた。

事件直後、ある死亡児童の保護者は、早い段階で来校したにもかかわらず、学校内で負傷していた児童に会うことも付き添うこともできなかった末、自力で探し回った病院で死亡した我が子と対面することとなった。

さらに事件後、学校からの説明や弔問が遅れただけでなく、教員の心ない表現、発言および行動が遺族の心を大きく傷つけた

学校の危険対策

この事件をきっかけに、学校(小学校など)、幼稚園、保育所などの児童・生徒・幼児が頻繁に利用される教育関連施設にも「警察官立寄所」の看板(プレート)またはシールが貼り付けられたり、学校にも部外者の学校施設内への立ち入りを厳しく規制したり、警備体制を強化するなどの方策を主張する声も増えた。

また、防犯ブザーを携帯する児童も増加したほか、保育士や教職員が防犯や心肺蘇生を必ず学ぶきっかけとなった

この事件をきっかけに日本では、幼稚園、保育所や学校はそれまでの「地域に開かれた施設」から安全対策重視の「閉ざされた施設」に方針転換するきっかけとなった。

それまでは地域のコミュニティに重要な役割を果たしていたと言い、校庭などは子供たちの遊び場にもなっていた。

この事件をきっかけに監視カメラを設置したり、原則的に部外者の立ち入りを禁じると言うこれらの傾向が強まった。

一部では常に警備員配置したり、集団登校時に保護者や地域のボランティアによる見守りも行われるようになった。

またこの事件をきっかけに名札は、廃止かまたは敷地内のみの着用に限定する事も良く行われる様になった。

触法精神障害者に対する対応

心神喪失と認められ、無罪あるいは不起訴処分となった者に対する処遇のあり方について議論された。

それまでは、精神障害者に対して司法機関が関与して処遇が行われることは、一部の団体が保安処分に対して、極めて抵抗感が強かったが、この事件以降に『心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った者の医療及び観察等に関する法律』が制定された。保護観察所に社会復帰調整官(精神保健福祉士)が置かれ、社会復帰調整官が中心となって医療観察が実施されることとなった。

もっとも、この措置は保安処分であるとの指摘もある。

被害者の精神的な障害

児童や教職員・保護者の中には、心的外傷後ストレス障害 (PTSD) に未だかかっている人もいる。

また、「あの時ああすればこの事件が起きなかったのに(または被害を抑えられたというのに)」というサバイバーズ・ギルト、いわゆる「見殺しにしたという自覚」ともとれる自責の念に駆られている教員もいる(一審の最終弁論で現行犯逮捕に携わった教員の証言)

精神障害者における報道被害

精神障害者のうち、統合失調症や気分障害などの者の家族らで運営する、精神障害者家族会のかつてあった全国連合組織、財団法人全国精神障害者家族会連合会(全家連)が、精神科医を通して、事件後の精神障害者に対する報道被害の様子の変化を調査している

  1. 自分の病気や障害について深く考え悩むことがあった患者がいた (73.9%)
  2. 他人の目が気になったりして外出が嫌になった患者がいた (63.0%)
  3. 再発というほどではないが症状が不安定になった患者がいた (57.6%)
  4. 眠れなくなったりするなど生活のリズムが乱れた患者がいた(50.0%)

深刻な事例として、精神科医から挙がった声としては

  1. 自殺した患者がいた(1.1%、2人)
  2. 入院・再入院した患者がいた(16.3%、24人)
  3. 再発した患者がいた(13.0%、21人)

となった。

全家連から報道機関への見解と要望

全国精神障害者家族会連合会(全家連)は、報道機関に対し「大教大池田小児童殺傷事件の報道について」(2001年6月8日付)と「小学校児童殺傷事件報道について」(2001年6月18日付)を送付している

  • 前者では「この事件で逮捕された男には、精神病院の通院歴があったと報じられていますが、その記述については、私たち身内に精神科治療を受ける者を持つ立場から見て、重大な疑義を感じざるをえません。記事(番組)の中で報道されている『男は、精神病院に通院中で…』という部分は、その表現 (以下、病歴報道)によって、読者(視聴者)には、『精神疾患』が本事件の原因であり、動機であると理解されてしまいます。その結果、「精神病者(精神障害者)はみな危険」、という画一的なイメージ(=偏見)を助長してしまうと考えるからです」

と、安易な病歴報道の問題点を指摘し、

  • 「妄想や幻聴などの症状は、薬物療法でコントロールしやすいといわれています」と精神科治療の実情を説明、「なぜこんな事件が起きたのか、服薬はきちんとしていたのかなど、事件の背景をきちんと取材し、今後の教訓となるような報道をしてください」

と要望している。

  • 後者では「安易な報道によって、「精神障害者は危険だ」という社会の偏見がより強くなりました。(中略)これは『報道被害』であるといっても、過言ではありません」

と、報道によって受けた報道被害を訴え、

  1. 事件の報道をする場合、警察発表であったとしても、事件の背景、病気の状態などが明らかになっていない段階で、特定の病名や通院歴・入院歴を報道するべきではないこと
  2. 法的責任能力の問題を精神障害に置き換えて報道しないこと
  3. この事件と触法精神障害者の処遇問題を安易に結びつけないこと

の三点を要望している。

この事件を題材とした邦画:【映画】葛城事件