松本サリン事件
- 2020.08.15
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松本サリン事件(まつもとサリンじけん)
正式名称: 松本市内における毒物使用多数殺人事件
1994年(平成6年)6月27日
長野県松本市でオウム真理教教徒らにより、神経ガスのサリンが散布されたもテロ事件。被害者は死者8人。
また、無実の人間が半ば公然と犯人として扱われてしまった、冤罪未遂事件・報道被害事件でもある。
その背景には、ずさんな捜査を実施した警察とマスコミのなれ合いがあったとも言われる。
事件発生
1994年6月27日から翌日6月28日の早朝にかけて、
長野県松本市北深志の住宅街で、化学兵器として使用される神経ガスのサリンの散布により7人が死亡、約600人が負傷した。
事件直後の犠牲者
- 35歳女性 1994年6月28日午前0時15分頃死亡
- 19歳男性 1994年6月28日午前0時15分頃死亡
- 26歳男性 1994年6月28日午前0時15分頃死亡
- 29歳女性 1994年6月28日午前0時15分頃死亡
- 53歳男性 1994年6月28日午前0時15分頃死亡
- 45歳男性 1994年6月28日午前2時19分頃死亡
- 23歳男性 1994年6月28日午前4時20分頃死亡
事件発生直後は、犠牲者の死因も物質も判明せず、事故もか犯罪か、自然災害かも判別できなかったため、新聞紙上には「松本でナゾの毒ガス7人死亡」という見出しが躍った。
6月28日、
長野県警察は第一通報者の河野義行(こうの よしゆき)宅を、被疑者不詳のまま家宅捜索を行ない、薬品類など数点を押収した。
さらに河野には重要参考人としてその後連日にわたる取り調べが行われ、河野を容疑者扱いするマスコミによる報道が過熱。
7月3日、
散布された物質がサリンであると判明した。
真犯人判明
その後、マスメディアや警察関係者に『松本サリン事件に関する一考察』という「サリン事件は、オウムである」とオウム真理教の犯行であることを示唆した怪文書が出回る。
翌1995年(平成7年)3月20日 地下鉄サリン事件が発生。
ほどなく当時目黒公証役場事務長だった男性を拉致・監禁し、殺害・死体遺棄した事件でオウム真理教に対する強制捜査が実施
教団幹部が次々と逮捕されていった。(公証人役場事務長逮捕監禁致死事件)
5月17日
幹部らは松本サリン事件を含め一連の事件がオウム真理教の犯行であることを自供。
なぜ事件は起こったか
オウム真理教は長野県松本市に、松本支部道場および食品工場を建設するための土地を取得しようと計画。
しかし反対運動も起き、さらに目的を隠して賃貸契約を結んだという理由で民事裁判が行われた結果、賃貸契約を取り消され、支部道場のみを建設し食品工場は諦めることになった。松本市はこの松本支部道場に、上水道、つまり飲み水を引くことを許さず、下水道を設置することは目をつむったが、普通の状態で許可したわけではない。
地主側は更に売買契約の取り消しも求め、一度は却下されるも、オウムの反社会性を訴えさらに訴訟を起こした。
長野地方裁判所松本支部は、この裁判の判決言渡しを1994年7月19日と指定。
準備
この頃、オウムには第三次池田大作サリン襲撃事件を起こすことを計画しており土谷正実が製造した青色サリン溶液(ブルーサリン)が保管されており、このブルーサリンが本事件にも使用されることとなる。
6月20日頃、
麻原は村井秀夫、新実智光、遠藤誠一、中川智正に
松本の裁判所にサリンを撒いて効果の実験をしろと指示。
6月26日、
端本は新実の指示により松本市に下見に向かう。
決行
6月27日14時頃、
端本らに対して新実から
「これから松本にガス撒きに行きまーす!」
などと軽い口調で作戦が伝えられた。
端本が警備中に戦闘になったら殺してもいいのかと心配すると新実は「いいんじゃないですかあ。主に闘うのは警官になると思います。
闘っている間に我々は逃げますから、あとはよろしく」と適当に答えた。
夕方、サリン噴霧車と、護衛部隊のワゴン車に分乗し出発。
土谷正実によると、この時新実らは教団内の隠語でサリンを指す魔法使いサリーの歌を車内で合唱していたという。
20時頃、Nシステムを避けるため高速道路を使わなかったこと、サリン12リットルの注入に手間取ったこともあって、到着時間が遅くなり、長野地方裁判所松本支部は既に閉まっている時間となっていた。新実と村井が相談の上、長野県松本市北深志にある裁判官官舎への攻撃に作戦を変更、電話で麻原の合意を得た。
22時頃、裁判所宿舎付近に到着すると、駐車場にてナンバープレートを偽装しつつ村井が噴霧地点を策定、噴霧を決行した。
22時50分頃、サリンが尽き発車。
発覚
長野県警がサリン生成に必要なメチルホスホン酸ジメチルの流通ルートを探ったところ、唯一個人購入している東京都世田谷区のT.Kという不審な男を発見した。
住所に行ってみるとオウム関連の団体が入るビルであった。
「ベル・エポック」という会社も同薬品を大量購入していたが、これはオウムのダミー会社であることが分かった。
さらに「下村化学」「長谷川ケミカル」「ベック」などの同様のダミー会社も見つかり、オウム真理教のサリン疑惑は深まっていった。
その頃、建設中の第七サティアンサリンプラントの事故により、周辺で異臭騒ぎが発生していた。
長野県警は土壌を採取し、1994年11月、土壌からサリンの最終分解物メチルホスホン酸が検出された。
1995年(平成7年)1月1日、読売新聞が一面で異臭騒ぎの場所からサリン残留物が検出されたと報じ、怪文書レベルであったオウム真理教とサリンの関係が一気に注目されることとなった。
これに対しオウム真理教は、劇物の処分や薬品購入用のダミー会社の閉鎖など証拠隠滅を急ぐとともに、残留物は地元の肥料会社社長がオウム真理教に対し「毒ガス攻撃を行った証拠である」と主張。
肥料会社社長を告訴し訴訟合戦となった上、
さらに阪神淡路大震災が発生し注目がそちらに向かったこともあり有耶無耶となった。
「地震があったから強制捜査が無かった」と考えた麻原らは、阪神淡路大震災に匹敵する事件を起こすため、地下鉄サリン事件を実行することとなる。
冤罪・報道被害
この事件は、警察の杜撰な捜査や一方的な取調べ、さらにそれら警察の発表を踏まえた偏見を含んだ報道により、無実の人間が半ば公然と犯人として扱われてしまった冤罪未遂事件・報道被害事件でもある。
冤罪であると判明したきっかけは地下鉄サリン事件だった。
経緯
当初、長野県警察は、サリン被害者でもある第一通報者の河野義行を重要参考人とし、6月28日に家宅捜索を行い薬品類など二十数点を押収。
その後も連日にわたる取り調べを行った。この際当時松本簡易裁判所所属であった判事松丸伸一郎が捜索令状を発行しているが、本来過失罪で請求するところを、手違いにより殺人未遂罪として発行していた。
長野県警察は河野宅から、それまでに押収した農薬からはサリン合成が不可能であることから、一部の農薬を家族が隠匿したとして執拗に捜査を続け、捜査方針の転換が遅れることとなった。
長野県警は事件発生直後「不審なトラック」の目撃情報を黙殺した。
また、事件発生直後、捜査員の一人の「裁判所官舎を狙ったものでは?」との推測も、聞き入れられなかった。
マスコミは、
一部の専門家が「農薬からサリンを合成することなど不可能」と指摘していたにもかかわらず、
オウム真理教が真犯人であると判明するまでの半年以上もの間、
警察発表を無批判に報じたり、
河野が救急隊員に「除草剤をつくろうとして調合に失敗して煙を出した」と話したとする警察からのリークに基づく虚偽の情報を流すなど、
あたかも河野が真犯人であるかのように印象付ける報道を続けた。
実際は、事件発生当日の1994年6月27日に、河野が薬品を調合した事実はなかった。
事件から14年後の2008年8月5日、本事件による負傷の加療中であった河野義行の妻が死亡したためこの事件による死者は8人となった。
河野義行への謝罪
関係者の対応は次のとおりであった。
- 当時の国家公安委員長野中広務は、個人として河野に直接謝罪している。
- 長野県警察は、本部長が「遺憾」の意を表明したのみで「謝罪というものではない」と直接謝罪もなかった。しかし、後の2002年に長野県公安委員会に河野が就任し、長野県警本部長がかつての捜査について謝罪せざるを得なくなり、初めての謝罪をした。
- マスコミ各社は、誌面上での訂正記事や読者に対する謝罪文を相次いで掲載した。久米宏が当時「ニュースステーション」の中継対談で番組の“顔”として詫びた。また前述の『週刊新潮』の謝罪は今も行われていない。なお、報道各社の社員個々人による謝罪の手紙については河野のもとに多数届いたという。
- オウム真理教は、アレフへ再編後の2000年に河野に直接謝罪した。
年表
- 1991年
- 6月18日 – 地主に対してオウム真理教であることを偽り、売買部分560平方メートル、賃借部分456平方メートルの土地を取得。4階建て1600平方メートルの食品工場と事務所の建設を計画。
- 9月12日 – 地元住民側に事業者がオウム真理教であることと、その計画が判明する。
- 10月29日 – 松本市が建築確認を許可。
- 10月 – 反対する地元住民が対策委員会を設置。
- 12月9日 – 教団側が建築妨害禁止の仮処分を求めて提訴(1992年1月17日却下)
- 12月10日 – 地主側が建設阻止の仮処分を求めて提訴(1992年1月17日決定)
- 1992年
- 2月12日 – 教団側が2階建て560平方メートルの支部道場の建築確認を申請。(3月23日許可)
- 5月27日 – 地主側が売買・賃貸契約無効と土地の明け渡しを求めて提訴。(7月22日第1回公判)
- 12月18日 – 松本支部道場開所。
- 1993年
- 8月 – 土谷正実、サリン合成成功。
- 1994年
- 2月 – 青色サリン溶液製造。
- 5月10日 – 土地明け渡し訴訟が結審。
- 6月20日 – 麻原、サリン攻撃を指示。
- 6月27日 – 松本サリン事件発生。
- 7月19日 – 長野地方裁判所松本支部の担当裁判官が負傷のため判決公判を延期。
- ? – 「松本サリン事件に関する一考察」流通。
- 1995年
- 4月14日、5月2日、5月16日 – 松本支部道場に強制捜査。
- 7月26日 – 松本支部道場閉鎖。
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