あさま山荘事件
- 2020.08.15
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あさま山荘事件または浅間山荘事件(あさまさんそうじけん)は、
1972年2月19日から2月28日にかけて、長野県北佐久郡軽井沢町にある河合楽器の保養所「浅間山荘」において
連合赤軍が人質をとって立てこもった事件である。
概要
1972年2月19日、日本の新左翼組織連合赤軍のメンバー5人が、管理人の妻(当時31歳)を人質に浅間山荘に立てこもった。
山荘を包囲した警視庁機動隊及び長野県警察機動隊が人質救出作戦を行うが難航し、死者3名(うち機動隊員2名、民間人1名)、重軽傷者27名(うち機動隊員26名、報道関係者1名)を出した。
10日目の2月28日に部隊が強行突入し、人質を無事救出、犯人5名は全員逮捕された。
人質は219時間監禁されており、警察が包囲する中での人質事件としては日本最長記録である。
酷寒の環境における警察と犯人との攻防、血まみれで搬送される隊員、鉄球での山荘破壊など衝撃的な経過がテレビで生中継され、注目を集めた。
2月28日の総世帯視聴率は調査開始以来最高の数値を記録し、
これは事件から45年以上が経過した現在でも、報道特別番組の視聴率日本記録である。
事件の発端
1971年
1970年代初頭、連合赤軍の前身である
日本共産党(革命左派)神奈川県委員会および
共産主義者同盟赤軍派の両派は、
それぞれ銀行に対する連続強盗事件(M作戦)と真岡銃砲店襲撃事件を起こして資金や銃・弾薬を入手し、特異かつ凶暴な犯行を繰り返しながら逃走を続けていた。
これに対し警察は、都市部で徹底した職務質問やアパートの居住者に対するローラー作戦を行いながら総力を挙げてその行方を追っていた。
一方、一連の学園紛争が終焉を迎えた当時にあって、マスコミ関係者の間でも一部の公安担当記者らを除いては両組織の存在すら知られていなかった。
警察に追われていた両派のメンバーは、群馬県の山岳地帯に警察の目を逃れるための拠点として「山岳ベース」を構え、連合赤軍を旗揚げした。
潜伏して逃避行を続けていたが、まもなく警察の山狩りが開始されたうえ、外部からの援助なども絶たれたため、組織の疲弊が進む。
1971年の年末から、山岳ベースにおいて「銃による殲滅戦」を行う「共産主義化された革命戦士」になるための「総括」の必要性が最高幹部の森恒夫や永田洋子によって提示され、
仲間内で相手の人格にまで踏み込んだ自己批判と相互批判が次第にエスカレートしていき、「総括」に集中させるためとして暴行・極寒の屋外での束縛・絶食の強要などされた結果、
約2ヶ月の間に12名にも及ぶ犠牲者を出し(山岳ベース事件)、
内部崩壊が進んでいた。
同時に群馬県警は350名を動員して大規模な山狩りを開始しており、県内の山岳ベースで息を潜めていた連合赤軍メンバーに対する包囲網は迫っていた。
1972年
1972年2月15日、近隣住民から「不審な火の手が上がっている」との通報を受けて駆けつけた群馬県警が榛名ベースの焼け跡を発見した。
妙義山ベースに潜伏中であった坂口弘らは、直前まで事実上の拠点として使用していた榛名山ベース跡地発見のニュースをラジオで知ると群馬県警察の包囲網が迫っていることを悟り、
メンバーに迦葉山ベースの解体を指示するとともに資金調達のために上京していた最高幹部の森と永田と協議するべく、東京へ向かおうとした。
坂口・植垣康博ら5人は森・永田との合流のため東京で借りたレンタカーのライトバンで出発したが、妙義湖近くの林道で泥濘に嵌り身動きが取れなくなったところを付近を捜索していた警官2人に見つかり、職務質問を受ける。
警官らは当初車両の脱出を手助けしていたが、指名手配されていた坂口・植垣ら3人は警官が目を離している隙に逃亡、
残されたメンバー2人は9時間の車内での籠城の末(この間に車内の男女は警官らの呼びかけに一切応じず、缶詰を食べたり、放尿したりした)、森林法違反(森林窃盗)容疑で逮捕された。
この間に運良く通りかかった工事用トラックに便乗させてもらいベースに戻ることができた坂口らは、留守をしていた6人のメンバーを引き連れて(合計9人)、森・永田不在のまま、急遽山越えにより群馬県を出て隣接する長野県の佐久市方面へ逃げ込むことにした。
長野県では、まだ警察が動員されていないと思われていたためである。
同日、警察は迦葉ベース跡地も発見し、連合赤軍メンバーの足取りを徐々に掴みつつあった。
事態を受けて、逃走者を待ち構えていたが、連合赤軍メンバーは警察が警戒しているであろう道路を避け、敢えて急斜面の沢を伝って移動する困難なルートを選択した。
ヘリコプターやパトカーを交わしながら雪山の道なき道を進んだ連合赤軍は、
装備の貧弱さと厳冬期という気象条件が重なって山中で道に迷い、軽井沢へ偶然出てしまった。
なお、警戒中の警官らによって、夜間に山中を移動しているメンバーの懐中電灯の光や夜が明けて残されていた足跡が発見されたが、あまりにも奥深い場所であったことや足跡の周辺の雪が崩れていたことなどから、
いずれも
「下山中の猟師だろう」
「前日見落とした古い足跡だ」
と判断された。
仮に両者がこの時点で接触して銃の撃ち合いになっていた場合、ライフルを持つ連合赤軍に対し警察は拳銃で野外の銃撃戦を挑まねばならず、大きな被害を出していたであろうとも言われる。
一方、都内にいた森と永田も、榛名山・迦葉山ベース跡地が発見されたことを知って、坂口たちと合流すべく妙義山ベースに向かうが、既にベースを捨てて脱出した坂口らと入れ違いになり、2月17日に山狩りをしていた警察官に見つかり抵抗の末逮捕された。
2月19日午前、山中でビバークした連合赤軍メンバーは、植垣ら4名を偵察を兼ねた食料などの買い出しに町へ派遣した。
しかし、軽井沢駅の列車内で、2手に分かれていた植垣グループは職務質問を受けた。
一方は手製爆弾や実弾を所持しているのを見つけられて銃刀法違反の現行犯で逮捕され、もう一方も咄嗟に住所として答えた長野市内の地名がデタラメであることを地元出身の警官に見破られ、逃走を試みたが逮捕される。
この逮捕劇の発端は、長期間入浴していなかったため悪臭を放っていたメンバーらを駅売店の店員が不審に思い、駅の助役に通報したことであった。
こうして29名いた連合赤軍メンバーは、ここに至るまでに12名が山岳ベースで殺害され、4名が脱走、8名が逮捕された結果、事件発生直前には坂口・坂東國男・吉野雅邦・加藤倫教・加藤倫教の弟の5名を残すのみとなっていた。
レイクニュータウン付近の雪洞で待機していた連合赤軍メンバーはラジオで4人の逮捕のニュースを知ると、自分たちが軽井沢にいることを悟るとともに警察の追跡を恐れて移動を開始した。
捜査陣も逮捕者らがレイクニュータウン方面から来たことを聞き込みで突き止めて捜査網を狭めた。
事件の経過(浅間山荘への立てこもりから制圧まで)
2月19日
雪洞を出た連合赤軍メンバーは間もなく自分たちが別荘地の外れにいることを知る。
軽井沢レイクニュータウンは当時新しい別荘地で、連合赤軍の持っていた地図にはまだ記載されていなかった。
2月19日の正午ごろ、メンバーは軽井沢レイクニュータウンにあった無人の「さつき山荘」に侵入し、台所などにあった食料を食べて休息したり、洗面や着替えをしたりしていたが、捜索中の長野県警察機動隊一個分隊がこの建物を検索し、中に人がいることを察知すると、雨戸の外から外へ出てくるよう呼びかけた。
坂口はこれに応答しないまま発砲、即座に機動隊側も拳銃を発砲してこれに応戦した後、吉野も参加して銃撃戦となった。
加藤倫教が坂口に対し、警察官を包囲してパトカーを奪って逃走することを提案したが、坂口は何も答えなかったという。
15時10分ごろ、現場から犯人発見と発砲を受けている旨の緊急報が出され、軽井沢署の署長室にいた警備第二課長の北原薫明が居合わせたパトカーに飛び乗って現場に急行した。
15時20分ごろ、メンバーは銃を乱射しながらさつき山荘を脱出し、自動車がある家を探す中で浅間山荘を発見した。
この時、機動隊2人が連合赤軍メンバーに撃たれて負傷している。
最初に侵入した坂口が管理人の妻を発見、管理人や宿泊客は外出していて山荘内は管理人の妻一人きりだった。
坂口は管理人の妻に「騒いだり逃げたりしなければ危害を加えない」と繰り返し告げ人質として立てこもることにした。
吉野は管理人の妻の拘束に異議を唱え、車を奪って逃げることを提案したが、坂口は管理人の妻を人質として、警察に森と永田の釈放と浅間山荘のメンバーの逃走を保障させようと計画していた。
しかし、吉野がそれに反対したため、この計画は断念されたが、皆が食事を取っていないこと、坂口自身が植垣に右の靴を貸してしまっていて履いてないことを挙げて、山荘にとどまる考えを示すと坂東も同調したため、最終的に吉野が坂口の意見に折れて籠城することが決定した。
坂口が車のキーの所在を人質に尋ねると、車のキーは出掛けている人質の夫が持っていると答えたために車での逃走も断念した。
坂口は人質に対し、「人質ではなく、助けを求めた山荘の管理人」という説明を行い、以後この考えに縛られ人質を利用する考えを放棄せざるを得なくなった。警察側は、人質を取られているうえ十分な人員が到着しておらず、また別働の連合赤軍の呼応の恐れもあったため、突入できずに説得を試みている中、連合赤軍メンバーらは山荘内にバリケードを築いていった。
すでに逮捕され、本事件の勃発を知らされた連合赤軍リーダーの森恒夫は、渋川署員に対して
「警察が全員射殺をしない代わりに、自分が立てこもっているメンバーを説得して投降させる」
として現地に行かせるように要求したが、その前に供述するよう要求され、森はこれを拒否したため実現しなかったという。
森はこの自身の行動を「敗北主義」「降伏主義」として事件後に自己批判している。
2月20日
2月20日、朝食後坂口、坂東、吉野の3人で今後の方針を協議。
吉野が警察の包囲網を強行突破することを主張したが他の2人の反対に合い、自説を取り下げた。
吉野は抗戦して殺害されることを念頭に置いてこのような主張をしたと逮捕後証言したという。
坂口は人質を自分たちの逃走の取引に使うことを一度は提案したが、前夜人質に人質でないと説明したこと、山岳ベース事件の犠牲者への償いのためにも警察権力と闘うしかないと考えたことからこの考えを取り下げる。
坂口は
「ここで徹底抗戦する。1日でも長く銃撃戦を闘う、警察官に降伏しない、1日でも長く抗戦を続けることに意義がある」
と発言し、
坂東・吉野もこれに同意した。
「徹底抗戦をするのなら人質は必要ないのでは」と吉野が人質を解放する案を提案したが、坂口は身元が発覚することを理由に却下。
実際は長く抗戦するためだったという。
坂口が協議の結果を加藤兄弟にも説明した。
犯人たちは山荘内の食糧を集め、1か月は持つと考えていた。
警察は、管理人から山荘には20日分の食糧が備蓄されており、さらに6人分の宿泊客のために食糧を買い込んでいることを聞いたため、兵糧攻めは無理と判断して説得工作を開始した。
8時40分と同46分に、上空のヘリに向けて犯人たちが発砲。午前11時過ぎから、装甲車の中より夫や親族による人質への呼びかけが行われた。
当初は人質を縛りつけ、口にはハンカチを押し込んで声が出ないようにしていたが、この日の午後、坂口が独断で縄を解いた。
前日に人質に対して人質にするつもりはないと言ったことと、人質の緊縛姿が山岳ベース事件で縛られながらリンチ死した同志と重なったためであったという。坂口の独断による行動であったが他のメンバーは何も言わなかった。
人質も交えて夕食。加藤弟が電気ジャーで御飯が炊きあがってすぐ食べようとしたのを人質が「ご飯は少しそのままにしておいた方がおいしいよ」とたしなめ、加藤弟が素直に従い御飯が蒸れるのを待ってから人質の「もういいでしょう」の言葉を聞いてから食べるなど犯人と人質の間でちょっとした雑談があったという。
2月21日
2月21日、犯人5人は盗聴や人質から身元が割れることを警戒してコードネームを決めた。
犯人たちはアジ演説も行わず電話にも出ず警察に何も要求せず、ただ山荘に立てこもって発砲を繰り返した。
14時過ぎ、人質の夫から妻への激励の手紙や果物を差し入れたいと申し出を受け、第九機動隊隊長の大久保伊勢男警視が丸腰で山荘の玄関前に果物籠を置く。犯人らの反応はなく、籠はそのまま放置された。
犯人たちは盗聴器が仕掛けられているかもしれないとして受け取らなかった。
さつき山荘に残された指紋から吉野のものが発見され、警察は吉野と行動を共にしていた坂口も現場にいると判断し、2人の肉親を呼び寄せていた。
午後5時ごろ、坂口・吉野の母が到着し、説得を行う。
犯人らは全員ベッドルームでこれを聞いていた。
坂口は人質に「俺の実家は花屋をしている。田舎だから村八分にされていると思う」と弱気な口調で話したという。
19時、山荘内のテレビでアメリカ合衆国ニクソン大統領の中国訪問のニュースを観た犯人らは衝撃を受ける。
加藤倫教は後にこの時のことを自著でこう語っている。
私や多くの仲間が武装闘争に参加しようと思ったのは、アメリカのベトナム侵略に日本が加担することによってベトナム戦争が中国にまで拡大し、アジア全体を巻き込んで、ひいては世界大戦になりかねないという流れを何が何でも食い止めなければならない、と思ったからだった。
私たちに武装闘争が必要と思わせたその大前提が、ニクソン訪中によって変わりつつあった。
ーーここで懸命に闘うことに、何の意味があるのか。
もはや、この戦いは未来には繋がっていかない……。
そう思うと気持ちが萎え、
自分がやってしまったことに対しての悔いが芽生え始めた。
2月22日
2月22日、午前、吉野の母が説得している最中に銃声。
吉野の母が「お母さんを撃てますか」と言ったことに対し、吉野はさらに発砲。
銃弾は吉野の母が乗る装甲車に当たり跳ね返った。
涙を流す吉野に坂口は「君のお母さんはインテリだからよく話すね」と言い、後年後悔したという。
正午ごろ、画家の男とSBCの記者が警戒線を突破して山荘に近づこうとしているのを取り押さえられる騒ぎがあり、この隙に警察の包囲をすり抜けた前日の民間人の男が山荘の玄関先に現れ、「文化人」を名乗り人質の身代わりとなることを主張。
前日に大久保警視が置いた果物籠をもって内部の犯人に呼び掛けだした。
警察が「山荘の学生諸君。この人は警察官ではない。民間人だから撃たないように」と呼びかける。
坂口は私服警官ではないかと疑いながら監視を続け、吉野が威嚇発砲を行うが後退せず。
坂口は機動隊にウインクをするなどした男にさらに不審を感じ、遂に拳銃で狙撃。男は一旦倒れたが、すぐ立ち上がり自力で階段を這い上がり機動隊員に保護される。
警察の呼びかけに男は「ああ痛え、オレか?オレは大丈夫だ」と答えていたが、実は脳内に弾が留まっておりその後容体が悪化、3月1日に死亡した(これにより、犯人が38口径の拳銃を持っていることが判明した)。
1人目の犠牲者。
14時40分ごろ、吉野と坂東の発砲により警察官2名が負傷。
超望遠レンズを持たない長野県警の鑑識班員らが現場判断で関東管区機動隊の特型車の後ろに隠れて山荘に接近したところ、車両の速度と歩調があわず、更に凍った道路に足を取られるなどして車体の影から露出したところを狙撃されたもので、最初に散弾で分隊長が右膝を撃たれ、更に倒れた分隊長を救出しようとした駆け寄った隊員が首筋にライフル弾を受けた。
この隊員は一命はとりとめたものの、口もきけなくなるほどの重傷を負った。
この失態により警察内部の主導権争いで長野県警の旗色が悪くなり、長野県警本部長の野中庸による判断で、幕僚団が指揮系統を押さえるとともに山荘周辺の警備実施は警視庁機動隊に任せることになった。
20時10分、米中首脳会談を見せるためにあえて電気をそのままにしていた警察が山荘の送電を断つ。
山荘内の部屋が真っ暗になると同時に外周に設置した投光器で山荘が照らされる。山荘から数発の発砲。
以後、電気は切られたままだったがガスと水道は止まらなかった。
23時16分、投光器の照明灯が山荘から狙撃される。
この日、警察が山荘の玄関先にメガホンを置いて政治的主張を訴えるよう要請。人質を取りながら何も要求してこない犯人を不気味に感じたためだったという。吉野が訴えるよう主張するが、坂口は「黙って抵抗していくことが我々の主張となる」と拒否。
2月23日・24日
2月23日 – 14時過ぎ、警官隊は山荘の三階玄関前に3台の特型警備車を配備し、強行偵察を開始。
16時半ごろには二階風呂場に催涙ガス弾20発が撃ち込まれた。
坂口はメンバーと人質にレモンを配り、人質を含めた全員が目の周囲、手の露出した部分にレモンをこすりつけた。
警察は強行偵察の目的であった犯人の特定と人質の安否の確認は果たせなかった。
2月24日1時頃、犯人らを眠らせないための擬音作戦が開始される。
作戦開始の合図として照明弾1発を発射する手はずとなっていたが、最初に点火した照明弾が燻るだけで打ち上がらないため別の照明弾を発射したところ、最初の照明弾が作動してしまい、「犯人らの突撃」を意味する2発の照明弾が撃ちあがってしまった。
この日は長野県警が現場を受け持ち、残りの部隊は休息を取る予定だったが、慌てて緊急配備を敷いた警察は肩透かしを食う。
5時と6時に人質の親族による呼びかけ。
人質は安心させたいからとバルコニーに立つことを要望し、吉野が顔だけでも見せてやったら良いのではないかと発言したが坂口は拒否。
さつき山荘に残された指紋から新たに坂東のものが発見され、この日9時半、坂東の母が警察の要請に応じて現場に到着し、説得。
坂東は黙って聞いていたという。
正午ごろ、警察による山荘への放水が始まり、水圧で玄関のドアやバリケードが破壊される。犯人たちは散弾銃で応戦。
2月25日・26日
2月25日、深夜から警察による擬音作戦(録音テープによる銃撃音等の偽装攻撃)と投石が行われるようになり犯人たちは不眠に悩まされるようになる。
2月26日、前夜から濃い霧が発生していたため吉野がこれに乗じての脱走を提案。
排水管や浄化槽などを調べるが脱走に利用できそうになかったため断念。
9時半、人質の親族が再び呼びかけ。
人質が「顔だけでもいいから出させてください」と頼むが坂口はこの日もこれを拒否。
坂口は人質に「どうして命を粗末に扱うのか」と問われるが、笑って答えなかった。
また、人質から自分を楯にしないこと、裁判になった際にも自分を証人として呼ばないことを要求され、坂口はいずれも了承。
坂口が人質のバッグに入っていた善光寺のお守りを人質に渡すと人質は自分で首に掛け、ベッドに横になった。
坂東が玄関右側にいる警官隊を見て「爆弾を投げつけて倒れた警官を引っ張り込んで人質に取ろう」と提案。
坂口は「縛り上げて北側のベランダに吊るし上げておこう」と同意したが、爆弾を投擲するための穴を開けることが出来ず、断念。
この他、玄関口のガス管を開放して機動隊が突入してきたときに爆破させる案も出されたが、玄関口が風通しが良いことから断念された。
夕方、山岳ベース事件の犠牲者寺岡恒一の両親が到着し、午後6時40分から呼びかけ。
メンバー全員がベッドルームに集まりこれを聞いていた。
寺岡の両親も警察もこの段階で寺岡がすでに死亡していることを把握しておらず、山荘内に立てこもっているものと考えていた。
聞いていた犯人のうちの誰かが
「この世にいない者の親を呼ぶんだからなぁ」
と発言。
坂口はこれを聞きながら「言いようのない胸の圧迫感」があったという。
2月27日・28日
2月27日、この日も吉野の両親、寺岡の父による呼びかけ。午後、ラジオからの事件関係の放送がなくなる。
「連合赤軍事件に関する取材・報道協定」が結ばれたためであった。
26、27日と警察の接近行動が形ばかりのものになっていたため、犯人たちは全員で警察の出方を協議。
結論は出なかったが明日はこれまでにない接近行動があるだろうと予測。
2月28日、5時、投石が止む。
9時、警察による投降勧告。
同じ頃、吉野があさま山荘の隣の芳賀山荘で数名の機動隊員が無防備で休憩しているのを発見し、散弾銃を構えたものの発砲はしなかった。
9時55分の最後通告の後、10時に機動隊が突入を開始。
10時7分、犯人によるこの日初の発砲。
機動隊員の大楯に当たり、銃撃戦が始まる。
同時に警察はモンケンにより山荘の玄関脇の階段の壁に穴が空け、空いた穴に激しい放水を行う。
11時27分ごろ、放水の指揮をしていた警視庁特科車両隊中隊長の高見繁光警部が被弾。
1時間後に死亡。
2人目の犠牲者。
坂口はこれをラジオで知ったが誰が撃ったのか知らなかった。
11時47分ごろ、第二機動隊伝令の巡査が坂東の狙撃により左目を被弾。
後に失明する。
11時54分ごろ、第二機動隊隊長の内田尚孝警視が坂東の狙撃により被弾し、午後4時1分死亡。
3人目の犠牲者。
11時56分ごろ、3階の厨房に侵入し指揮していた第二機動隊4中隊長の警部が吉野と加藤倫教の狙撃により頭に被弾。
坂口は法廷で聞くまでこれを知らなかったという。
内田尚孝警視重体の報はラジオを通して山荘内にも伝わり、人質は「銃を発砲しないで下さい。人を殺したりしないで下さい。私を盾にしてでも外に出ていって下さい」と必死に呼びかけた。
これに対し坂口は動じたものの、取り合わずに洗面所側と屋根裏のメンバーに向かって「おーい、上の方(階級が高い警官)をやったぞ」と伝えた。
12時30分過ぎ、警察の作戦行動が休止したため、犯人全員がベッドルームに集まり、空いた穴の応急処置、食事。
この頃には加藤倫教はすでに戦意を喪失しており、事件が早く終息して、弟の罪がこれ以上重くならないことを望んでいたという。
12時45分ごろ、山荘にカメラを向けていた報道陣に坂口が威嚇発砲。
信越放送の記者が被弾したことを知り、坂口は驚く。
14時40分ごろ、厨房にたむろしていた機動隊を発見した吉野の進言により坂口が鉄パイプ爆弾を投擲。
第二機動隊4中隊の分隊長が右腕を砕かれる重傷を負った他、他4名が全治数日の聴覚障害を負った。
15時半ごろ、警察による放水が再開され、撃ち込まれたガス弾により催涙ガスが山荘内に充満。
催涙ガスにより呼吸ができなくなり、窓を叩き割った坂口は目の前に見える浅間山を見て、浅間山荘という現場の名前の由来をこの時初めて知ったという。
15時58分ごろ、第二機動隊第2小隊巡査2名が坂口、坂東、吉野のいずれか(裁判でも特定されず)の銃撃により顔面に被弾。
17時ごろ、機動隊がベッドルームに接近。
バリケードを少しずつ排除していった。
17時20分ごろ、第九機動隊巡査が坂口と坂東の銃撃により被弾。
17時55分ごろ、第九機動隊巡査部長が坂口、坂東、吉野の乱射により顔面に被弾。
やがてベッドルームの壁に穴が開けられ、28人の機動隊員が突入。
18時10分ごろ、犯人一斉検挙のため先頭を切って突入した第9機動隊巡査が坂東の至近距離からの銃撃により右眼に被弾。後に右目失明。
その直後の機動隊突入により18時10分犯人全員逮捕、人質無事解放となった。
犯人たちは報道陣の罵声を浴びながら連行された。
この時、坂口は山越えで靴が破れていた植垣に靴を貸していたため雪の降る中を裸足で歩いて行ったという。
加藤倫教は連行された時の感情を以下のように記している。
のちに全員が連行される際の写真を見る機会があったが、私以外の四人は顔を歪めていた。私はただ前を真っ直ぐ見つめて歩くことを心に決めていた。
悔しい思いで、他の四人が顔を歪めていたとすれば、それは私も同じであったが、それは警察との闘いに敗北したことへの悔しさではなかった。私は、自分が正しい情報分析もできず、主観的な願望で小から大へと人民の軍隊が成長し、自分が立ち上がることで、次から次へと人々が革命に立ち上がり、弱者を抑圧する社会に終止符が打たれることを夢見ていた、その自らの浅はかさを思い知り、自分の幼稚さに悔しさを感じていた。
18時過ぎ、朝からテレビの実況中継を見ていた坂東の実家では、坂東逮捕が報じられると、父親が席を立ち、しばらく後に首を吊って死亡しているのが発見された。
裁判
本事件に関係した被告では、
坂口弘は死刑、
吉野雅邦は無期懲役、
加藤倫教(逮捕時19歳)は懲役13年、
加藤弟(逮捕時16歳)は中等少年院送致
とそれぞれ判決が確定した。
なお、坂口への最高裁判所の判決は1993年2月19日で、あさま山荘事件発生からちょうど21年であった。
国外逃亡した坂東國男は現在も国際指名手配されている。
警察関係者の中には、坂東が逮捕されるまであさま山荘事件は終わらないと考えている者もいる。
エピソード
カップヌードル事件当時の現場は、平均気温が摂氏マイナス15度前後の寒さで、機動隊員たちのために手配した弁当は凍ってしまった。
地元住民が炊き出しを行い隊員に温かい食事を提供したエピソードがあるが、実際にこれにありつけたのは外周を警備していた長野県警察の隊員のみであり、最前線の警視庁隊員に配給されるころには、炊き出したカレーライスも蠟細工のように凍っており、相変わらず凍った弁当しか支給できなかったという。
やむなく、当時販売が開始されたばかりの日清食品のカップヌードルが隊員に配給された。
手軽に調達・調理ができた上に、寒い中長期間の勤務に耐える隊員たちに温かい食事を提供できたため、隊員の士気の維持向上に貢献したといわれている。
もっとも、佐々淳行の著書によれば、カップヌードルは警視庁が補食として、隊員に定価の半額で頒布したものであるが、当初長野県警察・神奈川県警察の隊員には売らず、警視庁と県警との軋轢を生んだとある。
このカップヌードルを食べる隊員達の姿が、テレビの生放送で幾度も大写しで報じられ、平均視聴率50%を超える注目度もあって、同商品の知名度を一挙に高めた。
直後から他県警や報道陣からの注文が相次ぎ、それが更に大きく報道されたことで、カップヌードルの売上は爆発的に伸びて一躍ヒット商品となった。
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